幸せでいるための秘密
 だめだ、全然記憶にない。

 でもエピソードそのものは正しいし、きっと私が覚えていないだけで私は波留くんにその話をしたのだろう。本当、彼は記憶力が良い。司法試験なんかに合格しちゃう人は頭の出来が違うんだ。……そう頭では思いながらも、まったく別のむずむずするような気恥ずかしさが心をじわりと温めていく。

 こんなことまで覚えているなんて、波留くんはやっぱり、私のことが――

「中原」

 常と変わらない彼の声音で我に返り、ほのかに赤く染まった頬を両手のひらで軽く押さえた。

 波留くんは私に背中を向けて、カラーボックスの上に置かれた小さな写真立てを見つめている。

 神奈川で就職が決まったとき、新潟の両親と実家で撮った家族写真だ。私とお父さんとお母さん、そして一昨年亡くなった愛犬のモナカ。私は特別家族思いというわけじゃないけど、苦しいときや寂しいときは、この写真を見て心を奮い立たせたものだった。

「どうしたの?」

「いや……これは、実家の写真か?」

「そうだよ。実家のリビング」

「この額縁は?」

 小さな写真のさらに小さな一点を彼が指さす。写真の中で笑う私、その頭の真上に飾られた、百合の花。

「百合の押し花だよ」

 なんてことない雑談の調子で、私は言った。

「近所の公園に山百合がたくさん咲いててね。ちっちゃい頃に私が持って帰ってきたのを、お母さんが押し花にしてくれたんだ」

「…………」

「私は全然覚えてないんだけど『大事な人からもらったの』って大切にしていたらしくてさ。すごく綺麗だったから、ラミネートして飾ってくれたの。でも、何年も経てばやっぱり色あせちゃうよね」

 波留くんは形の良い唇をほんのわずかに開いたまま、まるで何かに魅入られたみたいに写真を凝視している。

 そんなに気になることがあるような写真かな。訝しく思いながら波留くんの横顔を眺めていると、彼はふいに口元を緩め、長いまつげを伏せた。

「どうしたの?」

「いや。素敵な御母堂だと思ってな」

 振り返った波留くんの顔は、いつにも増して爽やかに見えた。いつもの彼の微笑がまとうミステリアスで妖しい雰囲気が、雨上がりの青空みたいにまっさらに晴れて消えている。

「勝手に部屋に入って悪かった」

「いや、むしろありがとう。助かりました」

 波留くんはにこと笑うと、去り際、私のノートパソコンの画面へちらと目を落とした。


 切れ長の瞳にわずかに力がこもったことに、私は最後まで気づけなかった。
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