幸せでいるための秘密
「道路に不審な男がいたようだけど、あれ知り合い?」

「そうなんです。ちょっと……追いかけられていて」

「それで逃げ込んできたわけか。ここがどんな場所なのかも知らずにね」

 露骨に嗤われてしまったけど、怒れるような立場でもない。

 乾いた愛想笑いでごまかしていると、やがてエレベーターは最上階で止まった。視界が開けた瞬間に見えたのは明らかに高級ホテルのロビーで、磨き上げられた窓ガラスの下には都会の街並みが広がっている。……ここ、本当に病院?

「こっち」

 スリッパでぺたぺた歩く彼を追いかけ、奥の部屋へと踏み込んだ。室内もやっぱり高級ホテルの一室みたいで、まず広さが病室のそれじゃない。L字ソファにローテーブル、大きな植木鉢の観葉植物、壁にはなんだかおしゃれな絵画と巨大な壁掛けテレビ付き。でも唯一、奥のベッドに備え付けられた大きく無骨なモニターだけが、ここが病室であることを如実に物語っている。

「名前は?」

 彼がリモコンを操作すると、部屋のカーテンが全自動で開きだした。部屋に差し込む柔らかな日差しの中を、ガウンの裾をはためかせながら彼が歩く。

 窓枠に腰かけ、ガラスに額をこつんと当てて、彼は相変わらずの探るような目つきで私を見た。嘘をついたら許さないよ、と、耳元で囁かれた気がした。

「中原百合香です」

「そう、百合香。ほら見て」

 促されるまま彼の隣に並んだ私は、広い窓ガラスの真下に広がる景色をこわごわと覗き込んだ。あまりの高さに「うわ」と声を漏らすと、彼は小さく肩を揺らして笑う。

「百合香の友達、まだあの辺りでうろついているよ。ここからなら蟻みたいに見える」

「あ、本当だ。どうしよう」

「別に、いなくなるまでここにいればいいさ。心配なら警備員を使って追い払ってあげる」

 警備員を使うだなんて、いったいどういう立場の人なんだろう?

 さっきの受付での態度といい、ただの患者さんというわけではなさそうだ。こんな豪華な病室に入院しているあたり、院長先生の関係者とか、そうでなければものすごいお金持ちとかだろうか。

「それはとてもありがたいんですけど、ご迷惑になりませんか?」

 私の問いに、彼はもう一度「別に」と目を逸らすと、

「どうせ、僕の部屋なんて誰も来ないから」

 と、遠くを眺めて呟いた。

 音のない空間。街の喧騒は遥か階下で、行き交う人々の笑い声も、チラシ配りの元気な声も、この部屋までは届かない。

 どれだけ待とうと鳥の一羽も訪れることのない部屋で、彼はいったいどれだけの時を過ごしてきたというのだろう。見ず知らずの、用もないのに病院に駆け込んできた不審者である私を助けた、彼の気持ちが少しだけ垣間見えたような気がする。

 きっと、寂しいんだ。

「お名前、なんておっしゃるんですか?」

 わずかにまつげを持ち上げた彼が、怪訝そうに私へ目を向ける。

「嫌でなければ、私、また来たいです。今度は今日のお礼も兼ねて、ちゃんとしたお見舞いとして」

 彼は長々と私を見つめ、言葉の意味をじっくり考えていたようだけど、やがてふっと吐息を漏らすと、呆れたように呟いた。

(かつら)

 そして、本物の天使みたく微笑んだ。

「ありがとう、百合香」
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