初恋カレイドスコープ

お見舞いに行こう

・第五章終了後~第九章までのお話
・三人称玲一視点
・ほのぼのコメディです






 高階凛が風邪をひいた。

 彼女が休んで二日目の夜、椎名玲一は軽い気持ちで見舞いへ行くことを決めた。近所のスーパーで買い物を済ませ、彼女のアパートの近くのコインパーキングに車を停める。

 少なくとも玲一にとって、風邪をひいた友達の(そう、友達の)見舞いは決して特殊なことではない。そもそも昔から玲一は友達との生活の距離が近く、ふらっと家へ遊びに行って適当に泊まることもままあった。

 送ったメッセージに既読がつかないのはおそらく眠っているからだろう。さすがに予告なしでインターホンを押す気にはならず、玄関のドアにビニール袋を提げてもう一度メッセージを打つ。『玄関に飲み物とレトルト粥ぶら下げておいたからね』。

 さーて帰るかときびすを返したとき、ふいに室内からすさまじい物音が聞こえた。テーブルか何かをひっくり返したような、ちょっと聞き慣れない大きな音だ。思わず足を止めた玲一に追い打ちをかけるみたいに、スマホがぶるっと振動して新規メッセージの通知が浮かんだ。

『すみません、すぐに行きます』

(来なくていいのに)

 仕事人間の凛が仕事を休むほどの不調である。わざわざ顔なんて見せずに休んでいてもらう方がいい。別に玲一とて部屋に上がるつもりでやってきたわけではないし、気を遣わせるのは却って申し訳ないのだが。

 しかし玲一の気など知らずに、室内からドタバタと慌ただしい音が聞こえて、錆びた古臭い扉が開き凛が顔を覗かせた。顔色は思ったほど悪くないが、妙に慌てて息を切らしている。いつもはきちんと結ばれているロングヘアはボサボサで、玲一の視線で気づいたらしく、慌てて片手で髪を梳かしている。

「大丈夫?」

「は、はい。すみません、わざわざ来ていただいて」

 凛はビニール袋を受け取りながら「よければ上がっていかれませんか」と、わずかに頬を染めて声で訊ねた。んー? 凛ちゃん、期待してるの? なんてちょっとだけ思ったけど、病人を襲うつもりはないのであえて気づかないふりをする。

「お邪魔したいのはやまやまだけど、凛ちゃんの迷惑にならないかな」

「迷惑なんてそんな、とんでもないです。むしろその、来ていただいたのに、なんのお構いもしないのは、ちょっと」

「そう? それなら少しだけお邪魔しようかな」

 本音を言えば、彼女が普段どのような環境で暮らしているのか、少し気になっていたところだ。

 こざっぱりとした玄関には、いつも凛が仕事で履くパンプスだけが除けて置いてある。隣に自分の革靴を並べ、玲一は少し落ち着かない気持ちで廊下へ足を踏み入れた。


 外装はかなり古く見えたが、中はどうやらリフォーム済みらしく壁や床はそこそこ綺麗だ。青系の色が好きなのか、閉じっぱなしのカーテンをはじめ布団カバーや小物類もだいたい青で統一されている。

 当の本人は変なキャラクターの描かれた上下揃いのグレーのスウェットで、なんとも居心地悪そうに部屋の隅で縮こまっている。襟のあたりがちょっとよれ気味の、年季の入った部屋着らしい。

「部屋、綺麗だね」

 なんか甘酸っぱいにおいがする。女の部屋って久しぶりだな、と何気なく周囲を見回したとき、


 ガタン!


 と、唐突な物音に、反射で足を止めていた。

 今のはどこから聞こえてきたのだろう。玲一が見た限り、室内で何かが落っこちたり、倒れたりした様子はない。

「猫とか飼ってるの?」

「あ……ええと」

「閉じ込めなくてもいいよ。俺、動物平気だし」

「いえ……そ、そういうわけでは……」

 高階凛らしからぬ、どうも歯切れの悪い回答だ。視線はさっきからあちこちへ泳ぎ、指先は絶えずもじもじしている。

「ど、どうぞ、おかけになってください」

 小さなぺったんこの座布団を勧められ、とりあえず言われた通りに座った。あまり広くないワンルームの室内に、テーブルと呼べそうなものはこのチープな白い台だけ。他にはベッドと座布団程度で、家具らしい家具はあまりない。

 こう書くとなんとも殺風景だが、布団がぐしゃぐしゃのまま盛り上がっていたり、壁掛けのコルクボードにごちゃごちゃと紙が貼られていたりで、実際部屋に座ってみると案外モノが多く見える。平たく言えば、あまり片付いていないな……といった印象だ。

「すみません、麦茶しかなくて」

 不揃いのコップに入って出てきたのは、夏に田舎のばあちゃん家で出てきそうなたっぷりの麦茶だった。なんだか懐かしい気持ちにかられながら、玲一はひとことお礼を言ってコップのひとつに口付ける。わー、このおおざっぱな味。ばあちゃん家を思い出すなぁ。ばあちゃん日本人じゃないけど。

「本当はもっと、お洒落なお茶とか、お菓子とかお出ししたかったんですけど」

「俺、麦茶とか普通に好きだよ。それに今日は突然来ちゃったんだし、だいたい凛ちゃん病人なんだし」

 笑う玲一に、凛は落ち着きなく指先をいじりながら、

「でも、部屋着とか……もっと、可愛いのにしとけばよかったなって、思います」

 と、消え入りそうな声で言った。


(なにそれ。可愛い)

 素直にそう思う。この、好きな男の前で自分を精一杯可愛く見せたいといういじらしい心遣い。

 今日は特段その気はないものの、もしもの時はどうせ脱がせるから関係ないしな、とチラとよぎった本音を隠し、玲一は端正な表情を作ると、

「そう言う凛ちゃんが可愛いよ」

 と、珍しく本音で微笑んだ。

 二人きりの部屋の中、沈黙の中で視線が絡む。きゅっと唇を結んだ凛が、身体の奥底まで知り合った男にしか見抜けない程度の、ほんのわずかな《《しな》》を作って上目遣いに見上げてくる。

 どうしよう。触ってほしそうだな。体調も思ったより良さそうだし、とりあえず軽くキスくらいしてちょっと反応を見てみようかな?

 座布団から腰を浮かして、凛の方へとにじり寄る。凛は軽く姿勢を正して、ん、とわずかに唇を上げる。……

 そのときだった。

 ふいに吹き込んだエアコンの風が、きちんと閉じ切らずに放置されていたカーテンを大きく揺らした。音もなくめくれ上がったそれの奥、ベランダへと続く大きな窓に、およそ自然物とは思えない巨大な人影が浮かび上がる――

「うおっ、不審者!?」

 とっさに凛の肩を抱いて、玲一は慌てて窓から距離を取ろうとする。しかし、それより早く振り返った凛が、

「帰れっつったでしょ! このっ、バカ晴馬ぁ!!」

 と叫び、持っていた座布団を窓ガラスに向かって思い切りぶん投げたのだった。





「……あの、すみませんでした」

「…………」

 気まずい。実に気まずい。

 なんだこの空間。ここは地獄か。

 狭いワンルームに人が三人。凛の隣で正座をし、こちらをギッと睨みつけているのは、大人というより青年と呼ぶのがしっくりくるような年若い男だ。

「ほら、挨拶」

「…………」

「あの、弟の晴馬です。すみません、ちょっと、こんな様子で」

 ああそう、弟くんか。確かに言われてみれば、どことなく顔立ちが似ている気もする。凛から可愛げを抜き出して手負いのフェレットと合体させたら、まあこんな顔立ちになるんじゃないでしょうかね。

「……俺、嫌だから」

 ぼそっと、聞き取りづらい声で弟は言う。

 聞き返そうとした凛を遮り、彼はその場で立ち上がると、

「姉ちゃんの彼氏がこんな絵に描いたようなチャラ男だなんて、俺、絶対に嫌だからな!」

 と、玲一の方をまっすぐに見つめ、爆発的な大声で言った。


「か、かかか、彼氏だなんて、そんなわけないでしょ!? 上司だから! 職場の上司!!」

「ただの上司が部下に向かって可愛いなんて言うわけねーだろ! 彼氏じゃないなら姉ちゃんのこと狙ってんだろこのチャラ男が!」

「ああああもう、失礼なこと言わないで! 確かに見た目は絵に描いたようなチャラ男だけど、中身はすごくしっかりしてて素敵な人なんだから!」

「知るかよそんなの! だってどう見てもチャラ男じゃん! 姉ちゃん絶対騙されてるよ!」

「やめなさいバカ! 人を見た目で判断しちゃダメだって、昔から言ってるでしょ!!」

 あ、絵に描いたようなチャラ男ってところは否定してくれないんだ?

 まあわかってましたけどね? あえてチャラく見せてるところもあるしね?

 若干半笑いになりながら、玲一は軽く咳払いをして接待用の仮面を被る。

「いきなりお邪魔してすみません。僕は凛さんの職場の上司で、椎名玲一といいます」

「なーにが『僕』だよ。猫かぶりやがって」

 ぶん殴るぞこのクソガキ。首出せ首。頸動脈の血流止めて酸欠にされてえのか。

 笑顔の裏に狂気を隠した玲一の本音を知ってか知らずか、凛は再び座布団を取ると晴馬の後頭部を思い切り叩く。

 曰く、どうやら玲一が訪れる直前まで、この弟が凛の見舞いのため部屋を訪れていたらしい。今日はこのまま泊まるつもりだったのだが、突如玲一が現れたため、凛は大慌てで弟を追い出し「ベランダから外へ出て家に帰れ」と言って、靴と荷物を投げ渡したのだという。

凛ちゃん()の対応もなかなかひどいけど、そのままベランダで見張ろうとする晴馬()もなかなかの異常者だな)

 ようは筋金入りのシスコンと言ったところか。ぎゃあぎゃあと口喧嘩をしながら、晴馬は顔を真っ赤にして「こんなチャラ男は絶対ダメだ」としつこく繰り返している。

 正直その点について、玲一に口を挟む余地はない。なにせ玲一は凛の告白を一度明確に断った上で、彼女の純粋な好意を利用してセフレとして引き留めているのだ。度重なる愛情の試し行為に凛は平然とついてきてはいるが、この状態が彼女の幸福に繋がるかと問われれば首を傾げざるを得ない。

(潮時かな)

 弟の言葉で凛の目が覚めれば、この関係もあっけなく終わるだろう。やっぱりだめか、と玲一は小さく息を吐く――

「聞きなさい、晴馬!」


 聞いたこともないほど鋭い凛の声に、晴馬だけでなく玲一までが自然と居住まいを正していた。

「お姉ちゃんはね、この人のことを本当に尊敬しているの。お姉ちゃんとひとつしか違わないのに、いつも落ち着いていて、仕事ができて、なんでも頼りになる人で」

「…………」

「この人みたいになりたいと思って、お姉ちゃんお仕事頑張ってるの。この人はお姉ちゃんの憧れで、とっても大事な人なんだから」

 そこで言葉を切り、凛は力強い眼差しを晴馬へ向けた。

「だから、好きになってとは言わないけれど、失礼なことを言うのはやめて。……お姉ちゃんの気持ちも、少しは考えてちょうだい」

 ぐ、と。

 息を呑んだのは玲一だけではなかった。凛に見据えられた晴馬もまた、その勢いに圧倒されたように唇を結んで黙り込む。

 今までのドタバタとは打って変わった、奇妙な沈黙が狭い部屋を包む。やがて、晴馬は諦めたように大きく肩でため息を吐くと、

「……わかったよ……」

 と言って、ゆるゆるとその場に立ち上がった。

「今日は帰るけど、俺、まだそいつのこと認めたわけじゃないからね」

「晴馬!」

「もし遊びで姉ちゃんにちょっかい出そうとしてんなら、絶対に許さないから」

 晴馬の冷ややかな目線を受け止め、玲一はふっと薄く笑う。

「肝に銘じておくよ」

 面白くなさそうに晴馬は鼻を鳴らし、靴を片手に玄関から出て行った。

 ワンルームに再び沈黙が舞い降りる。凛はひどく申し訳なさそうに、形の良い眉をしょぼんと下げて深く俯いている。

「すみませんでした、玲一さん」

「いや、いいよ。結構おもしろかったし」

 言いながら玲一は手を伸ばすと、凛の細い髪をくしゃくしゃと撫でた。ベッドでの触れ合い方とは違う、可愛い子犬を慈しむようなその触れ方に、凛は少し驚いたように目を丸くしている。

「次に俺が来るときは、弟くんのことわざわざ追い出さなくていいからね」

「でも、弟はまた失礼なことを言うかもしれません」

「いいんだよ、それで。……尊敬できる男でいられるよう、俺だって頑張らなきゃいけないんだから」

 晴馬の出て行った扉を見つつ玲一がそう言うと、凛は言葉の意味をはかりかねたみたいに小首を傾げて頷いた。

 今はそれでもいいと思う。この不誠実で不純な関係が、二人にしかわからない曖昧な強度で、少しでも長く続いてくれるなら、それで。

「じゃ、絵に描いたようなチャラ男は帰りまーす。ばいばーい」

「うあっ、すみませ、それはその、言葉の綾で! ……玲一さん! 怒ってますよね!? 玲一さんっ!!」




おわり
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