初恋カレイドスコープ
番外編・後日談

最後のキス

・時系列では第一章の末尾ですが、読むタイミングとしては第二章(10ページ)の後をおすすめします
・三人称玲一視点
・おまけです






「シンガポール観光に二泊三日はちょっと短いよ。最低でも三泊四日、できれば五泊はいてほしいね」

 ガイドブックを覗き込みながら呟いた玲一の言葉を聞いて、凛は少しだけ複雑そうに、ですよね、と目尻を下げてみせた。

 ああきっと、これは彼女ではなく今回来られなかった相方のせいなのだろうと。瞬時に理解した玲一は、話題を変えようとページをめくる。ガイドブックにはあちこちにカラフルなふせんが貼られていて、時間や交通手段についてたくさんの書き込みがされてある。

 でも玲一がぱっと見た限り、凛はおそらくふせんを付けた観光地の半分も見られていないだろう。二泊三日でセントーサ島まで行くのは到底不可能だ。きっと彼女は涙を呑んで、数々の場所を諦めたに違いない。

「また来ればいいよ」

 そう言って、玲一は凛の頭を撫でた。椅子の背もたれに寄りかかりもせず、凛は唇を噛んで頷く。

 彼女が――つい昨日まで男を知らなかった、この黒髪の綺麗な女が、いったい何を考えながら空港の椅子に座っているのか。

 少し考えればすぐ手の届きそうな答えだったからこそ、玲一はあえて深く考えず知らないふりをした。答えを確定させたところで、できることなど何もないから。

「今回の旅行で何が一番面白かった?」

 と訊ねれば、凛は少しだけ頬を染めて、

「シンガポール・スリング」

 と、恥入るようにはにかんだ。

 素直でいじらしい女だと思う。人より優れた容姿に生まれ、イージーモードで生きてきただろうに、不思議なほどすれたところがなく、とても真面目で思いやりもある。

 だからこそ、誘いに乗ってきたのは正直意外でもあったのだ。酒の力を借りたとはいえ、ああも簡単に初対面の男に肌を許してくれるとは――しかも処女だとは――最後にシンガポールを観光して、可愛い女の子と楽しく酒を飲むだけでも、まあ別にいいかなと思っていた玲一である。頬を赤らめて寄りかかる色気づいた彼女の姿は、嬉しい誤算だったと言っていいだろう。

(もったいない女)

 だから余計に一抹の罪悪感が、まだ心に残っている。

(普通に生きていくだけでも十分幸せになれるだろうに。……俺なんかと無駄な冒険をして、本当、もったいない女)

 流暢な英語のアナウンスが流れ、凛がはっと顔を上げる。

 そろそろ、時間だ。縋るような目をこちらへ向けてくるかわいそうな女の髪を、玲一は梳くように優しく撫で、それからそっと抱き寄せた。

 小さな身体がより一層小さく、きゅっと縮まっていくのがわかる。ぽんと背中を叩いてやると、彼女の緊張は緩やかにとけて、おずおずとためらいがちに背中に細い腕が回される。

 昨夜、玲一の身体の下で未知の痴態を晒した彼女は、そのときの余韻をくすぶらせながら、今この最後の抱擁を身体の奥深くで味わっているのだろう。

 右手に握った彼女のスマホがさっきから小刻みに震えている。彼女の迷いが伝わってくるみたいで、やっぱり罪悪感を煽る。

 連絡先を、聞こうかと思った。実際に連絡するかは別として、お互いがまた引き寄せ合うためのか細い蜘蛛の糸程度でも、残しておくべきだろうかと。

 しかし玲一にはやることがある。仮に互いの連絡先を伝え合い、彼女がまた会いたいと言ったところで、そのときの玲一は昨夜みたいに気軽に会ってやれるかわからない。

「玲一さん」

 胸の内側から聞こえる、凛の声は震えている。

「本当に、ありがとうございました」

 あらゆる想いを心に隠し、最後に残った本心みたいな声を聞いたとき、玲一はなんだかたまらない気持ちになって彼女の唇にキスをした。

 昨夜さんざん交わしたものとは違う、トンと優しく触れ合うだけの、子ども同士みたいなキス。それは、二度と会わない彼女へ贈れる、最大限の思い出だった。

 頬を染めて目を丸くする凛の目尻から、透明な涙がほんの一筋、ドラマみたいに零れ落ちた。

 その雫を舌の先で舐め取ってやりたい気持ちを堪え、玲一は親指でそれを拭うと、

「もう行きな」

 と言って、電光掲示板を指す。

 凛は小さく頷いて、鞄を肩に立ち上がった。深々と頭を下げる彼女を、複雑な思いで見つめる。

「じゃあ、元気でね。凛ちゃん」

「はい。玲一さんも」

 ゆっくりと頭が上がったとき、凛の表情は雨上がりの空みたいに淡く澄み渡っていた。

 玲一は思う。この女はきっと幸せになれる。当たり前に仕事をこなし、当たり前に友達と遊び、当たり前に恋をして、当たり前にその先へ進む。

 いわば玲一と過ごした夜は、彼女の長い人生におけるほんの一瞬の躓きでしかない。その結果彼女が失ったものは、玲一が別に何もしなくても、きっと彼女の新しい魅力で埋め潰されていくのだろう。

 玲一と凛の人生が、この先交わることはない。

 でも、それでいい。――椎名玲一は『当たり前』を生きられない男だから。

(こんな俺のことなんて、忘れた方が身のためだ)

 途中何度も振り返りながら、凛がゲートをくぐっていく。彼女が完全に視界から消えるまで、玲一はいつまでも微笑みながら、ずっとその背を見送った。




 その二日後、日本行きの飛行機にて自社の人事資料を眺めていた玲一は、ある社員のページで「ん?」と小首を傾げることになる。




おわり
< 106 / 110 >

この作品をシェア

pagetop