モブ未満

数分して矢束さんがそっと教室のドアを開けて顔を出した。
そこには、いつもの冷静でクールな矢束さんの姿があった。

「ごめんね?」
「大丈夫です!」
「木下くん、なんで教室きたの?」
「あ、そうだ!スマホ忘れて⋯⋯」
本来の目的を思い出し、僕は慌てて教室に入って
ロッカーに入れていたスマホを取り出した。
スマホを制服のポケットにしまうと、僕と矢束さんの間では気まずい空気が流れていた。

このまま帰ると僕はまたいつもの日常に逆戻りで、矢束さんを遠く眺めるだけの生活になるんだろう。
そう思うと、なにか話をしたいと思って、でも何を話せばいいのか分からない。

「め、メイド服、着たかったんですか?」
思わず超どっ直球の質問をすると、矢束さんは照れくさそうに笑った。
「着たかったというか、なんかこう、この機会を逃すと二度と着ないかもって思うともったいなくなってきて、だれもいないし、思わず出来心で」
「な、なるほど⋯⋯」
それ以上会話が続かない。
コミュニケーションレベルが幼稚園児クラスの僕では会話を弾ませることすらできない。
「でも木下くんでよかったー。他の子だったら速攻写真撮られてクラスのLINEにあげられてたかも」
「いや、そんな⋯」
「絶対あげられてたよー。誰に拡散されるかわかったもんじゃない」
矢束さんほどの有名人であればたしかにあげられた瞬間に拡散されて、どこかのだれかのフォルダに未来永劫残るかもしれない。
「人気者は大変ですね」
「ところでなんで敬語なの?」
「え! いや、つい」
憧れの女の子とタメ語でウェイウェイできるほど肝っ玉はすわってない。
「なにそれ。変なの」
クスリと僕に笑いかけてくれる矢束さんに、僕の心臓は鳴り止まなかった。
ずっと見ていた人が、僕を見て笑いかけてくれるなんて。もしかして今日死ぬのかもしれない。

「あ、私職員室いかなきゃ。木下くん、また明日ね」
「あ、はい。また明日」
「先生みたい」
クスクス矢束さんは笑うと、バイバイと手を振って去っていった。

その後ろ姿を見送ったあと、僕は静かにそこに座り込んだのである。

「~~~~~なにあれ。かわいすぎるだろ」
今起きた出来事が僕にとって衝撃的で、この余韻は当分忘れられそうになかった。

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