ファーレンハイト/Fahrenheit
 午後二時四十分

 加藤奈緒は、捜査員用のマンションに戻る途中だった。近隣のドラッグストアへ買い物へ行き、マイバッグを肩に担いで、もうひとつのマイバッグは手に持っていた。
 どちらも重いようで、肩に、指に食い込んでいた。
 そこに走り寄る葉梨将由がいた。

「加藤さん、持ちますよ!」

 その声に立ち止まり、振り向いた加藤は表情を変えずに「ありがとう」と言い、手に持っていたマイバッグを葉梨に渡すと、葉梨は「そちらも」と言い、肩に担いだマイバッグも受け取ろうとした。

「ありがとうね。ちょっと買い過ぎたから重くて」

 そう言って、加藤はマイバッグを葉梨に渡し、二人は並んで歩き始めた。二人の間に会話はなく、ただ、黙々と歩いていた。

 葉梨が口を開いたのは、加藤がマンションの入口のガラスドアを開けた時だった。

「山野の事、聞きましたよね?」
「山野のどんな事?」
「あの……えっと、須藤さんが言い出した事です」
「……ああ、あんたが結果を出したんだってね。松永さんが褒めてたよ。良かったね」
「いや、加藤さん!」
「なに?」

 そこに、エレベーターが到着し、山野が降りてきた。

「あっ! 葉梨さん! どこ行ってたんですか? お買い物だったんですか? 私、荷物持ちますよ」

 笑顔で駆け寄った山野は加藤を一瞥し、すぐに葉梨の顔を見上げたが、葉梨は険しい顔をして言った。山野は葉梨の顔を見て驚いている。

「山野、悪いんだけど、これ持って部屋に戻ってくれるかな。俺は加藤さんと話があるから」

 そんな二人の様子を見ていた加藤が山野に向かって言った。その言葉は冷たく、感情がなかった。

「すぐ終わるから、ごめんね」

 二人の表情に何かを察したのか、頭を下げただけで山野はエレベーターに乗った。ボタンは葉梨が押してやり、エレベーターの扉は閉じられた。

「加藤さん、外に出ましょう」
「ここで良いんじゃないの?」

 その言葉に眉根を寄せた葉梨は加藤の腕を引っ張って外に出た。
 歩き始めた二人はまた無言のままだったが、最初に口を開いたのは加藤だった。立ち止まって葉梨を見上げ、言いたい事を一気に言う加藤に、葉梨は呆気にとられた。

「松永さんがあんたの事を人誑しって言ってたよ。ふふっ、女誑しと言わないのは松永さんの配慮なのかもね。で、岡島だけどさ、アイツの口が軽いのは当然知ってるよね? 一年前にあんたさ、山野に初めて会って、その後何回かデートしたんだってね。告白したけど山野が断ったからあんたは連絡しなくなったんでしょ? で、この前あんた山野を抱きしめたんだってねえ。あんたは本当に凄いって私も思った。それに今さっきの山野の目。私、笑いそうになっちゃった。だって可愛い女の子がおめめキラキラさせてあんたを見てるんだもん。良いじゃない、可愛くて。可愛いんでしょ? 山野を可愛がってやんなよ。山野が可愛いんでしょう? ねえ」

 口元は笑みを浮かべているが、冷めた目で自分を見上げる加藤に、葉梨は後退りした。

「あの……加藤さんは、それで良いんですか?」
「何が? あんたと山野が付き合う事?」
「そうです」
「嫌だよ」
「んっ!?」

 想定外の返答に驚きの表情を浮かべる葉梨を見て、加藤は声に出して笑った。「可愛く言えなくてごめんね」と言い、下を向いて、吸った息を深く吐いてから、また葉梨を見上げた。

「葉梨がさ、この前山野を抱きしめたって話、私は岡島から聞いたんだよ。私は山野からは聞いてない。多分だけど、葉梨があの日に何を言ったか、何をしたか、全部誰かに喋ったんじゃない? もちろん岡島まで話が行くまでに、数人が聞いてるだろうけど」

 不機嫌な顔になった葉梨の顔を見上げながら、加藤は続ける。

「それでも、ちっちゃくて可愛い年下女が良いっていうなら、でっかくて可愛げのない年上女は身を引くよ? どうする?」

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