ファーレンハイト/Fahrenheit
 全員が席に着いた時、武村が玲緒奈さんにコーヒーを淹れると伝え、「ありがとう」と言うと、加藤も席を立った。その姿を見て、テーブルに置いたピコピコハンマーを手に取った玲緒奈さんは本城の頭を叩いた。

「痛っ! 俺っ!?」
「そうよ?」
「でも玲緒奈さん、あの……私がやらないと」
「どうして?」
「えっと……女だから……」

 その言葉に眉根を寄せた玲緒奈さんは加藤にキレた。さすが狂犬の親玉だ。思わず顔を伏せた。
 玲緒奈さんの目つきが変わり、優しい声音で言葉遣いが上品になると、狂犬メーターが振り切れる寸前のサインだ。

 ――おかあさん、こわいよ、ぼく。

「ちょっとお待ちになって。ねえ、一番下の武村さんがお茶の準備をなさるのよ? その手伝いをなさるなら、あなたではなくて、本城さんがやる事ではなくて? 違うかしら? ……ねえ、あなた。後輩の立場もあるのよ? おわかり?」
「あっ……はい、そうです、申し訳ございませんでした」
「ふふ。……ああ、それと本城さん、あなたもよ? 加藤さんがやるようだから自分は関係ないと思ったのかしら? 私はね、あなたがやるべき事だと、思いますのよ?」
「ヒィッ! そうです、俺です! 申し訳ございませんでした!」

 本城はまたピコピコハンマーで頭を叩かれた。

 ――多分、『俺』じゃなくて『私』と言わなかったからだと思うよ。

 三十歳の本城は反社にしか見えない見た目をしていて、リビングにいると組事務所にしか思えなくなるが、玲緒奈さんに説教されている姿は下っ端構成員にしか見えない。

 玲緒奈さんはピコピコハンマーを置くと隣の相澤に向き、「裕典くんはちゃんとしてるもんね、偉いね」と言い、「はい!」と元気良く答える相澤の頭を撫でた。

 俺はその相澤の姿を見て、十七歳の時に玲緒奈さんに初めて会った時の事を思い出した。
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