ファーレンハイト/Fahrenheit
 そうか、私はきちんと言葉にして気持ちを伝えていなかった。だから葉梨は不安なのか。悪い事をしてしまった。雑音が入る上に、私の気持ちが分からないのなら、不安で堪らなかっただろう。

「葉梨、私は葉梨が好きだよ」

 言えた。私はちゃんと言えた。好きな人に好きだと言えた。
 それが嬉しくて、私にも出来るのだと嬉しくて、笑顔で葉梨を見上げた。
 葉梨も嬉しそうに笑っている。
 葉梨は笑うとエクボが出来るのか。知らなかった。
 私はそれに手を伸ばした。

「エクボが出来るんだね」
「加藤さんも。左に出来る」

 そう言って葉梨は私のエクボにキスをした。私も葉梨の首に腕を回して引き寄せて、エクボにキスをした。

「あの、加藤さん」
「ん?」
「前言撤回はしますか?」

 私が場の雰囲気に流されて承諾するとでも思っているのか。葉梨はバカなのか。

「殴るよ?」
「…………」

 二人きりでいる時にこんな上下関係を持ち込むような事はしたくないと思うが、如何せんまだ不慣れだ。そのうちムカつかなくもなるのだろう。だが、まだ、だめ――。
 葉梨の表情がみるみる変わっていった。

「ねえ、葉梨。あんた今日何しに来たの?」
「……合コンの件でお詫びに……です」
「だよね? 私は何もしないって言ったよね?」
「はい……」
「分かってるならいいよ」

 私の下腿に当たっていた、葉梨の熱く張りつめた硬いものは、もう既に熱を無くしていた。それはとても残念だが、仕方のない事だ。

「葉梨は良い体してるね。柔道じゃないよね? 何やってるの?」
「子供の頃からグレイシー柔術やってます」
「そうなんだ」
「今度さ、マッチョしかいないジムに一緒に行こうよ」
「ええっ!?」
「嫌なの?」
「行きます行きます」

 マッチョしかいないジムに数量限定のリンガータンクがあった。ブルーは葉梨に良く似合うと思ったが、早く戻らなければと思って買わなかった。だから一緒に行った時にプレゼントしてあげれば良いだろう。葉梨はスリーブレスも似合うだろうが、私はリンガータンクを着た葉梨の姿を見てみたい。
 マッチョしかいないジムで葉梨がトレーニングしている姿を見るのが楽しみだ。

 見上げる葉梨は困ったような顔をしている。何でだろう。ああ、きっと不安なのだ。トレーニングに集中したいのに私に気を遣わなければならないから、出来るか不安なのだろう。葉梨はどこまで真面目なのだろうか。

「葉梨、大丈夫だよ。トレーニングは邪魔しない。絶対に。私も自分のトレーニングに集中するし」
「ん……はい。分かりました」

 葉梨は『お前は何を言っているんだ』の顔をしている。なぜだろうか。まあいい。私は葉梨とマッチョしかいないジムに行ける事が楽しみなのだ。

 嬉しくて葉梨の胸に顔を埋めた。頬が緩んでいる顔を葉梨に見せなくない。だって恥ずかしいから。
 葉梨の大きく息を吐く呼吸音が心地良い。もっと、聞かせて欲しい。

 一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男――。

 私はもう、葉梨に夢中だ。
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