ファーレンハイト/Fahrenheit
 十一月二十五日 午後五時二十九分

 松永さんが寝息を立てて眠る姿を俺はあれからずっと見ている。眠いけど、今日は松永さんをずっと見ていたい気持ちになった。
 松永さんはあのまま寝てしまった。
 雨は止んで日が落ちて、街の明かりがカーテンから漏れて、松永さんを照らしている。

 ――ちゃんと寝てる。

 髪を掴まれた時の松永さんの目はすごく怖かった。
 あの目を見たら足が竦んでしまった。だってあの日の松永さんと同じだったから。
 あの目で凄まれたら、全てを話さないと殺されると思った。
 でも、俺は話さなかった。
 でも、松永さんは勘付いた。
 でも、裕くんありがとうって言った。

 ――これで良かったんだ。

 ◇

 笹倉さんのお母さんが殺された事、家が放火された事、交際相手がその場で自殺した事を、半年近く経ってから知った松永さんが刑事課の俺の所に来たあの日、松永さんのあの目はもう二度と見たくないと思った。思ってたけど、また見てしまった。

 半年以上、単独行動で情報を遮断されていた松永さんを、署の誰もが松永さんだと気付かなかった。それくらい、松永さんは変わり果てていた。
 松永さんを暴漢と誤認した署員が制止しようとしたけど、次々と倒されて廊下に転がっていた。追い縋る署員の手は空を切る。怒号と唸り声と悲鳴。悪夢を見ているようだった。俺を見つけた松永さんは凶暴な目をしていた。今まで見たことのない人間の目。

 ――生存を脅かされる極限に置かれていた人間の目。

 俺は殺されると思った。
 松永さんは俺の前に来て、俺の腕をものすごい力で掴んだ。それから何かを言いたかったのだろうけど、声が出なかった。掠れた空気の音だけが聞こえた。

 やっとそこで俺は松永さんだと気づいたが、俺もその時にはもう何も考えられなくなっていた。なんとか絞り出した言葉は「事実です」だった。そうしたら松永さんが強く掴んだ俺の腕は開放された。松永さんはそのまま膝から崩れ落ちた。
 松永さんは力の入らない腕で俺の胸を叩き、嗚咽を漏らしながら笹倉さんの名前を呼んだ。

「優衣ちゃん……優衣ちゃん……」

 俺の腕の中で、声にならない声で、笹倉さんの名前を呼び続けた。

 松永さんは、大切な人が全てを失って暗闇の中にいる事すら知らなかった。松永さんの心の中は分からないが、自分の存在が否定された気持ちになったのだと思う。自分は友達ですらない――。

 ――笹倉さんにとって、自分はいなくてもいい人間。


 松永さんは笹倉さんを二十年以上想い続けて、この前やっと手に入れた。でも手に入れたと同時に手にする物があるという事を松永さんは知らなかった。
 多分、それを知ったから怖かったんだろうな。だって松永さんは恋愛経験ゼロだから。笹倉さんは恋人じゃなくて幼馴染みで友達だから。笹倉さんに恋人が出来ても別れるまで待ってるだけ。笹倉さんがいつまでも結婚しないから、松永さんは失恋を経験しようにも出来なかった。

 ――始めたら、終わりがある。

 松永さん、恋い焦がれる笹倉さんの気持ちが自分から離れてしまうのでは、と思い悩むのは辛かったでしょう? 怖かったでしょう? でも二回目じゃないですか? あの時と同じように自分でどうにかするしかないですよ。

 でも松永さん、笹倉さんはちゃんと間宮さんの交際の申し出を断ってましたよ。

『心に決めた男性《ひと》がいるんです』

 そう間宮さんに伝えたそうですよ。
 あの日、間宮さんと笹倉さんが一緒にいた理由は、間宮さんがどうしてもとお願いしたからでしたよ。
 あんな熊とゴリラの間の子みたいな男の誘いを断れる女性は狂犬の加藤ぐらいしかいませんよ。
 ゴリラ単体の俺ですら面識があるのに今でも笹倉さんは怯えますからね。

 フラれた間宮さんは落ち込んでましたよ。
 笹倉さんは間宮さんの好みのタイプど真ん中でしたからね。
 でも間宮さんは俺と松永さんの三人で合コンしようって言ってきましたよ。
 あの熊とゴリラの間の子は挫けませんね。
 どうしますか、松永さん。
 笹倉さんにヤキモチを焼かせるために合コンに行ったらダメですからね。

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