桜ふたたび 前編
それまで黙ってふたりのやりとりに耳を傾けていたリンは、わずかに眉根を寄せた。
──何? この尻の座りの悪さ。
議員秘書時代、誰よりも優秀だと自負し、熱意を持って仕事に取り組んでいたのに、融通の効かない正義感の強さのせいか、同僚のみならず議員からも、度重なるハラスメントを蒙った。
雨の演説会場でひとり後片付けに残され、惨めさに涙したあの日──。何度か有力者のパーティーで見かけたジェイから声をかけられなければ、裁判に勝訴することも、今の生活を手に入れることもなかっただろう。
あれから八年。
彼は24時間、常にビジネスモードの人間だから、デートの席に呼びつけられることなど珍しくもない。
がしかし、こんなに気の緩んだ彼を見たことがない。
時間の流れが、生ぬるい。
決して他人に妥協することのない彼が、その流れに乗り遅れた者は容赦なく切り捨てて行く彼が……。
何よりも、嫌みのない彼の笑顔など、シュールすぎて気味が悪い。
彼の交際条件は、仕事上のメリットだ。
情報収集と人脈構築が目的で、そこに愛や情は必要ない。
しかし、リンの頭の中に収蔵された膨大な紳士録に、彼女は見当たらない。
どう逆さまにしてみても、凡庸を絵に描いたようなこの女性に、利用価値があるとも思えないのだが。何か特殊な事情をもっているのだろうか。
──いや、まさかこの歳になって、青臭い恋愛を?
にわかには信じがたいが、最近の不可解なスケジュール変更に加え、空港での名作映画のようなラブシーンを目の当たりにしては、彼のプロファイルをアップデートする必要があるのかもしれない。
リンは澪を一目した。そのブラウンの瞳に、不吉を予感した不穏な色が浮かんでいた。