桜ふたたび 前編

テーブルに黒い中国服のボーイがやって来て、ジェイにそっと耳打ちをした。
スイッチが入ったように彼の表情が消え、彼は躊躇いもなく席を立った。

ホールに現れたのは、マオカラーの初老の男。ジェイに向かって満面の笑みで両手を広げている。

張浩宇《チョウ ハオユー》。上海の不動産大手会長。
てっぷりと出た腹、ふくよかな赤ら顔に大蒜鼻。超富裕層の偉容が十分備わっているのに、金鎖の付いた鼈甲の丸眼鏡、金の時計に金の指輪、金のネックレス。いつ見ても趣味が悪い、と心の中で失笑してしまうのは、北京に祖をもつリンの偏見だろうか。

続いて現れた黒いドレスの女は、陳子涵《チャン ズーハン》。
香港の大手投資会社会長で、父の跡を継いで財閥を率いる、〝レディーバフェット〞と異名を取るやり手だ。
シニアに手が届くはずだが、さすが手入れが行き届いていて、年齢不詳の妖艶な九尾狐のよう。

しかし、上海と香港の株式市場のキーパーソンが、東京で密会とは──ただ事ではない。

リンは、ジェイを先頭にVIPルームへ向かう一行を目で追った。

──仕掛け人はジェイか。

どうりで他に客がいないわけだ。

ロス到着時にはここへの来店は決まっていたから、事故の情報が入ってすぐに根回ししたのか。
ニューヨーク市場の混乱に乗じて、何か画策しているのだろう。アクシデントさえ逆手に取る──さすが抜け目ない。

見ると澪は、主人の帰りを待つ仔犬のように、心許ない目を三人が消えた扉に向けている。

リンは散り蓮華に麺を載せながら、抑揚のない声で切り出した。

「ご忠告があります」
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