桜ふたたび 前編
『Mr.Arflex!』
白昼夢から引き戻されて、澪は驚いた顔を声の方へ振り向けた。
スマートフォンを握りしめた中年男性が、通行人を器用に追い抜き走り寄って来る。
糊の効いたワイシャツ、几帳面に結ばれたネクタイ、瑕も汚れもない革靴。ピンと胸を張った自信に満ちた風体から、エリートビジネスマンに見える。
それが嫌みにならないのは、太くきりっとした眉と濁りのない大きな瞳に、内面の廉潔さが滲み出ているからだ。
息せき切って駆けつけたのか、引き締まった顎から汗が一筋落ちた。
『先斗町にいるって、いったい何のために!』
ついて出た語気の荒さに自分でも驚いたのか、男はとたんに恐縮して、今度は冷や汗と変わった額の汗を手の甲で拭った。
それから一つ息を継ぎ、抑えた声で話しかける。話しかけるというより、何か必死に懇願しているような、差し迫った雰囲気だ。
対する相手は、けんもほろろという感じ。
怒りも不快感もない、感情を置き忘れたような無機質な声。
今さっきと同じ人物なのかと不思議になって、澪は瞳だけを動かしそっと彼をうかがった。
スラックスのポケットに片手を突っ込んで、やや顎を引いているのは、相手の目線に合わせているからか。
外国人の年齢は読みづらいけど、日本人らしき男性よりはずいぶん若そうだ。
その立ち居姿に見覚えがある。巽橋で見かけた人だ。
間近で見ると、すっきりと通った鼻筋、はっきりとした二重の目、くっきりとラインを描いた唇──完璧な黄金比率の美形。
均整のとれた肢体は、カッセルのアポロン像を彷彿とさせた。
体温を持たない大理石の印象を与えるのは、最高級のダイヤモンドのような、冷たく冴えた瞳のせい。
オールバックの髪は少し癖毛のオフブラックで、肌は褐色に近い。それなのに、虹彩だけ色素が薄いから、よけいにミステリアスに感じる。
その瞳が、ふとこちらへ動いた。
とっさに澪は目をそらしてしまった。
まるで氷柱。見つめられたら、相手どころか辺りの空気さえ凍りそう。
その視線をまともに受けながら、男はまだまだ食い下がっている。
そのたび情動のない短い言葉で返されて、しばしば絶句。目を泳がせ、ついには威圧されたように、半身になりながら半歩引き下がってしまった。
助太刀を求めるような視線を、澪へ送りながら──。