桜ふたたび 前編
パートナーを無視した行為は、呆気なく終わった。

濡れた澪の頬に、乱れた髪が貼り付いている。せっかくきれいに黒髪を飾っていた生花が、床に散って踏みにじられていた。

ジェイは、自分がしでかした行為に言葉を失い、厭わしい現状から目を背けるようにバスルームへ向かった。

──いったい、どうしたというのだ。相手の合意も得ずセックスするなど、恥ずべき行為だ。

だが、むらむらと立ちこめる欲情に、勝てなかった。
アレクを見つめる澪の笑顔、彼の唇が澪に触れたとき、ぷつんと頭の中で音がして、理性など木っ端微塵に吹き飛んでしまった。

──なぜ彼女は拒まなかったんだ!

奪った男より、受け入れた女が許せない。

──だいたい何だ、笑顔の安売りなんかして。私には握手さえ拒んだくせにダンスまで! 慎重な女だからあの遊び人でも引っかけられまいと安心していたのに、警戒心のかけらもなかったではないか。これだから女は信用できない。

いや、人間に裏切りはつきものだ。常に背信も寝返りも想定内だったのに、どこかで澪を特別視していた自分が間違っている。

そのとき、頭の先で声がした。

〈あなたが笑えば、彼女も笑います〉

送り火の夜、別れ際に菜都が耳打ちしたことばだ。

澪は相手の思いに感応する。
人付き合いが苦手な彼女は、摩擦をおそれるあまり、人をよく観ているのだ。相手の瞳を観察し、その奥に隠された感情の流れを掴もうとする。心理学などの理論ではなく直覚で捉えているから、相手の情緒に引きずられやすい。

今回も、澪は媚びたのではなく、アレクの笑顔に応えただけなのだ。冷静に考えればわかるものを……。

それに、どう正当化しようとしても、今のは完全にレイプだ。

頭からシャワーを浴びたまま、ジェイは烈しい自己嫌悪にしばらく動けなかった。
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