桜ふたたび 前編

『御当主直々、マティーに話があった。
ホテルはメディーナに吸収、ワイナリーは現体制のままインターナショナル傘下にせよ、との仰せだ』

エルは、腕組みし、胸を反らすように肘掛け椅子にもたれかかり、陰湿さをオブラードに包みもせず、せせら笑う。
母がなぜ、知己からの依頼をお前にではなく私に託したのか、わかるだろう? と。

それを言いたいがために、わざわざ追ってきたのか。暇なことだ。──と、ジェイは内心呆れた。

エルはさらに得意げに、

『カイザーが密かに買収工作をしていたらしい。それが、御大の逆鱗に触れた。
ここは穏便に、カイザーにはモーゼルの農園を譲ってやろう。作付け面積、生産量ともにクローゼの二倍、品質も遜色ない。こちらとしてはマイナスだが、マティー御所望のホテルさえ手に入れば、フェデーも納得するだろう。
つまり、お前の出番は、ない』

ジェイは、ゆっくりと瞬きをした。

クローゼとカイザーは、いくつかの業務提携を結んでいる。
それが今回、一切の平和的交渉がなされなかった。
理由は明白──カイザーの母体が、かつてナチスの生物化学兵器研究に関与し、今なお軍事開発を疑われる化学工業企業だからだ。

彼らの狙いは、ワインでもホテルでもない。
あの畑で発見されたボトリティス・シネレア(貴腐菌)の変異体を宿主とする、マイコウィルス。
あのテロワールでなければならない。

ウォルフガングは、二年前に最愛の伴侶を亡くし、自らも難病を患っている。子はない。
二月に片腕の甥が不審死し、その原因も不明のまま。後継者争いで結束の強いファミリー企業に不協和音が生じていた。
そこをつけ込まれたか。

『黒幕は、ロイズですか』

エルは反っくり返ったまま固まった。

『ロイズだと?』
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