桜ふたたび 前編

3、追憶

先斗町はすでに夜を迎えていた。店々の看板には灯が点され、打ち水された石畳に滲んだ明かりを落としている。

板場で仕込みを続けていた慎一が、人の気配に入口へ顔を向け、「おう」と緩めた頬が、「おこしやす」の途中で引き攣った。

「ようこそおこしやす。あら? ジェイさん。日本においでやしたんどしたか? 今日は、おふたりで?」

暖簾から顔を覗かせた女将に、慎一は「要らんこと言うな」と口の中で呟いて、苛々と布巾で包丁を拭っている。

丸窓の花籠には、色づき始めたモミジがあった。

ジェイは席に着くなり、

「明日、東京へ戻ったら、その足でFrankufurtに発つことになった」

まるで業務連絡のように言った。

「ドイツ、ですか……」

ニューヨークと聞くよりずいぶん遠い国に感じる。地球儀を廻せば、日本からの距離はさほど違わないのに。

今度はいつ逢えるのだろう──。澪が飲み込んだ質問を読んだように、

「今回は六ヶ月はかかる」

澪は胸を突かれたように小さく項垂れた。
半年──。覚悟はしていたけどあまりに長い。

「クリスマス にItaliaで会おう」

食事に誘われたような感覚で頷いて、澪は慌てて聞き返した。
< 127 / 298 >

この作品をシェア

pagetop