桜ふたたび 前編
「おおっ、いらっしゃい」

丸坊主の大将が、驚きと懐かしさが混ざった笑顔で澪に声をかけた。笑うと垂れ目がいっそう垂れて、パンパンに張った腹といい大黒様のようだ。

古い江戸前の寿司屋で、カウンターにはガラスのネタケース、隅には生簀がわりの水槽が置かれていて、小さなフグが止まるように泳いでいた。

柚木はカウンターの椅子を引きかけて、思い直したように反対側の小上がりに靴を脱いだ。座卓が二席あり、右側が、昔、ふたりの指定席だった。

「緊張するなぁ。はじめて澪を誘ったときみたいや」

おしぼりで手を拭いながら、柚木は照れ笑った。
つられて澪も、口端を上げた。

澪が柚木と出会ったのは高校三年生、就職の面接のときだった。そのときの面接官の一人が彼だったと知るのは、入社して半年も経った頃だ。

はじめてのひとり暮らし、はじめてのおとなだけの社会、慣れない生活は不安で夜がこわかった。
人と関わりたくないと思いながら、心の底では誰かとの絆を求めていたのだと思う。

三十人程の社員のなかで、女性は澪を含めて四名。三十代から四十代で、当然話は合わない。そのうえ、まわりの男性たちが若い澪をあれこれと構うものだから、よけいに澪に対する風当たりは強くなった。
空気になることには慣れていたけれど、あからさまな嫌がらせや除け者という陰湿ないじめに、精神的にまいっていたとき、優しく声を掛けてくれたのが、当時専務の柚木だった。

「彼氏と、うまくいってる?」

「え?」

「指輪、この間も大事そうにしてたから」

澪はあっと右手で左手を覆って、面映そうに微笑んだ。

「そんな表情もできるようになったんやなぁ」

柚木は安堵と寂しさが混ざった顔をした。

「何をしているひと?」

澪は少し考えて、

「外資系の企業に勤めています」

「そう、優秀なんや。ほんまはな、会えるんやないかと期待して、あそこを通ったんや。いい恋をしてるみたいでよかった。安心した」

澪は表情を強張らせた。

──なぜ、そんなに優しい声で言うの? わたしを許さないで。

澪は自らに咎を与えることで、今まで心の均衡を保ってこられたのだ。耐えがたい後ろめたさから、自分に足枷をかけることで、楽になろうとしていた。
それを、いきなり鍵を外されてしまったら、方向もわからず蹲るしかない。

「もう忘れなさい」

澪は言葉の代わりに頭を垂れて小さく首を振った。

忘れてはいけない。忘れられるはずがない。

澪は時間が遡っていく感覚を覚えていた。
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