桜ふたたび 前編
混乱したのは柚木も同じだ。
妻の懐妊を報らされて、驚きと喜び、疑心と気まずさ──入り乱れた感情に、話の流れすら見失っている。
柚木は訝しげに眉を寄せ、妻に問いかけた。
「待て、誰の話をしてるんや?」
「何しらばっくれてんの。彼女、妊娠してんのやろ?」
香子は軽蔑を滲ませて言い放つと、唖然とする柚木の前に、封筒を叩きつけた。
興信所の社名が小さく入っている。中身は薄そうだ。
「ほんま、温和しそうな顔して、ようもやってくれたわ」
硬い表情で封筒を見つめていた柚木が、ゆっくりと、憐れむように、澪に視線を向けた。
「……ほんま?」
澪は答えられなかった。頭を垂れたまま、唇を固く結び、無言を貫くしかない。
その澪の前に、今度は紗子が別の封筒を押しつけるように置いた。銀行名が印字され、厚みがある。
「中絶手術の費用と、当面の生活費です。不足なら追加でお支払いしましょう」
「君!」
詰るような視線にも、紗子は怯まない。澪を睨みつけている。
錐のように突き刺す視線。それでも澪は、首を折ったままなにも返さない。
誰もが動けずにいる状況に、香子の苛立ちが爆ぜた。
テーブルに勢いよく手をつくと、ソファから身を乗り出し、澪に迫る。
「あんなぁ、迷惑なんよ。あんたも、そのおなかの子ぉも」
「香子ちゃん!」
「お義兄さんは黙っといて!
男の浮気の一つや二つ、見逃したる。けど、妊娠となれば話は別や」
香子はますます澪に顔を寄せ、
「まさか、お姉さんの代わりに柚木の跡継ぎを産もうとか、考えたんやないやろね?」
大きく鼻を鳴らすと、テーブルを思い切り叩き、
「大きなお世話や! そんな子、さっさと始末してしまいなさい!」
怒号に、澪の体がこわばった。
母の声がフラッシュバックする。澪は、激しい嵐が去るのを待つように、ぎゅっと目を瞑り思考を止めた。
いっとき沈黙があった。次の放電へのエネルギーを溜めこむように、空気がピシピシと小さな霹靂を飛ばしている。
緊張に耐え切れないように、柚木が口を開いた。
「……わかった、続きは家で話そう。少し、考える時間が欲しい」
「あなたのご両親──」
低く呪うような声。
澪の呼吸が、一瞬止まった。