桜ふたたび 前編
「娘が、不倫相手の子を妊娠して、妻から慰謝料請求されたなんて聞いたら、ショックやろね。サッカーのお上手な弟くんの将来にも、傷がつかへんかったらええけど──」
「もうこれ以上、澪を責めんといてくれ……。悪いのは僕やさかい」
「いけない」と、澪は心の中で叫んだ。
自分はどれほど罵倒されようと構わない。彼女の怒りは当然だから。
けれどいま、柚木が澪を庇えば、怒りの収拾がつかなくなる。
言葉でぶつけられなくなった負の感情は、危険な行動を引き起こしかねない。
澪は紗子を見た。
どす黒い恨みのこもった目に、母の狂気が重なった。
紗子はゆっくりと立ち上がった。無言で台所へ向かう。
柚木と香子が胡乱な表情で見守るなか、彼女は水切りかごから包丁を抜き取った。
「やめろ!」「サエちゃん、落ち着いて!」
飛び上がるように立ち上がったふたりの声が震えている。
「あなたを取り戻すためなら、私は、何だってする」
彼女の声も、包丁を握りしめる手も、震えていた。
澪は、どこか遠い感覚で彼女を見上げていた。
切っ先は天井を向いている。彼女はいったい誰を弑するつもりなのだろう──奪ったものなのか、奪われたものなのか、自分自身なのか、と。
「子どもなんか、絶対産ませない」
──ああ、この子なのか……。
「頼む……それを、置いてくれ……」
紗子はじりじりと澪との距離を詰めてくる。
澪は尻を送って、ゆっくりと後退んだ。
腕を伸ばせば届く間合いに、澪が観念したように目を瞑ったとき──
「わかった! 君の言う通りにする! だから、やめてくれっ!」
悲鳴のような懇願──その瞬間、魂が抜けたように紗子の手から包丁が滑り落ちた。
トン、と乾いた音を立てて刃先が床を叩き、彼女は崩れるように膝をついた。
「サエちゃん!」
床に顔を伏した紗子を、香子が抱きしめる。
柚木は、胸をつかれたように紗子を見つめている。
足元に冷たく光る凶器を見つめながら、澪はただ、一刻も早く、この部屋から彼らが立ち去ることだけを、願っていた。