桜ふたたび 前編
〈僕には澪の心がわからない。僕を愛していたんやろうか?〉

あのとき最後に呟いた柚木の、悲痛な顔が忘れられない。思い出すたびに、今も自問自答して、胸が締めつけられる。

愛だと信じたから、背徳と自己嫌悪に喘ぎながらも進んできたのに、「愛しているのか」という問いの前で、澪は立ち往生してしまったのだ。

〈いつか離婚して、故郷の丹波へ一緒に帰ろう〉と、柚木は言った。〈澪となら、子どもがなくても幸せな家庭を築ける〉と。

けれど、彼の立場や性格、背負っているものを思えれば、とうてい不可能なことはわかっていた。
彼が離婚によって失うものは、あまりに多すぎる。
会社を逐われ、これまで構築してきた人間関係を踏み潰され、莫大な慰謝料を請求されて、きっと澪への愛情を後悔する。

だから、妊娠を告げることができなかった。

彼の穏やかな眼差しが、苦悩に変わるのを見るのがこわかった。
優しい彼の唇に、残酷な言葉をのせたくなかった。
それならいっそ、何も言わずに別れ、ひとりで子どもを産み育てよう。そう心に決めた矢先の出来事だった。

あのとき澪は、柚木から別れを切り出されることを待っていた。
なのに彼は、ひどく混乱していたとはいえ、不倫を清算しようとは露とも考えていなかった。
ふたりを先に帰し、妻の狼藉を詫び、すぐに別の住まいに移ろうと言った。

不思議なのは、嬉しいという感情が少しも湧いてこなかったということだ。

子どもだった澪は、父と年の近い柚木に、父親の愛情を求めていたのだと思う。

あの冷たい家から逃げ出したくて、社会人として独立することを選んだ。けれど、初めてのひとり暮らし、初めての大人だけの社会、慣れない生活は不安で夜がこわかった。

人と関わりたくないと願いながら、心の底では誰かとの絆を求めていたのかもしれない。
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