桜ふたたび 前編

「お城みたいですね」

澪はうっとりと呟いた。

「palazzo(城)ではないけれど、以前は貴族のvilla(別荘)だった。亡くなった祖父が、ここ一帯の農場、牧場、葡萄畑、醸造所、使用人まで、すべて買い上げたんだ」

屋敷は、三方を深い松の森に囲まれ、海に開けた斜面はレモンやオレンジの段々畑になっている。
森の向こうの丘陵に広がるのはブドウ畑だろうか。裾野は見渡す限りの牧草地で、小屋や塔が点在している。

「え? これ全部ですか?」

「当時は、戦争や貴族制度の廃止で彼らも困窮していたから、安く買い叩いたんだろう。
富も地位も権力も手にすると、人は名誉が欲しくなる。祖父の真の狙いは称号だったが、さすがに不可能で、息子とフランス ル・コント(伯爵)の末裔との婚姻で手を打った」

ジェイは海風に気持ちよさそうに目を細め、事も無げに言う。
あまりに現実離れした話に、澪は足元が泥に沈んでゆくような気がした。

体を寄せ合っているのに、ジェイの存在が遠くなる。思わず彼を掴もうとした指先が冷たくて、澪はぎゅっと拳を握った。

荘園のような土地、ホテルと見紛う豪邸、何人と傅く使用人たち、調教の施された美しい馬。
映画や物語でもあるまいし、スケールが違いすぎる。

ジェイの家が資産家であることを、澪はこれまで意識してこなかった。
千世がネット検索した情報をいろいろ熱く聞かせてくれたけれど、他人事だった。
澪が想っているのは〝ジェイ〞であって、〝ジャンルカ・アルフレックス〞という人物については興味がなかったし、本人が話さない限り、知る必要もないと思っていた。

いや、本当は興味をもたないように自分を騙していたのだ。
知ってしまうと、なにかが変わってしまいそうでこわかったから。

それなのに、これを見たら、意識せざるを得なくなってしまう。

むろん彼自身が大富豪というわけではないけれど、そんな環境のなかで育った人とは、やはり根本的に合わない。
澪の両親でさえ、旧家の長男と貧しい漁村の娘、生活の隅々に育ちの違いが表れて、父方の母方に対する貶みは酷かった。

──何を思い上がっているの? 心配しなくても、彼はいずれ彼に見合った女性と結ばれる。

ふたりはたまたま同じ駅に居合わせただけ。待っている列車は違う。
どんなに今が愉しくても、待ち時間は永遠には続かない。

そんなこと、初めから承知していたはずだ。
それなのに、あり得ない将来を愁えているなんて、どうかしている。

「腹がへったなぁ」

少年のような屈託のない笑顔に、返そうとした微笑みが少し不自然になったことを、澪は自覚していた。
頬を撫でる潮風が、急に冷たく感じた。
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