桜ふたたび 前編
『あなたも、罪なことをするわね 』
『何が?』
『清純な彼女が、あなたたちの毒に染められていくなんて、見てられないわ』
アレクは、ルナのおぞましそうな視線をものともせず、フェッテ・ビスコッターテ(ラスク)にたっぷりとヌテッラ(ヘーゼルナッツとチョコレートの甘いペースト)を塗りこめながら言った。
《毒と薬は表裏だからな。事実、ミオはこの三ヶ月で驚くほどいい女になった》
確かに、澪はきれいになった。
愛情を注げば注ぐほど、彼女はそれに応えて美しくなる。
しかし、アレクに言われると、素直に喜べないジェイだった。
《まあ、お前のほうが澪に染まったみたいだけどな。……いや、むしろ澪に清められたのか。嫌な垢が洗い流されて、まるで聖人のようじゃないか》
アレクは高らかと笑ったが、ルナは笑わなかった。
『これから、ミオをどうするつもり?』
深刻な口調に、ジェイは何だと目を上げた。
『彼女には、慎ましやかな生活が似合ってる。思惑と欲望だらけの醜悪な世界に、無理に引き込むのはよくないわ。彼女が傷つくだけよ』
ジェイは静かに息をつき、新聞を畳んだ。
ルナは、面倒くさい。自分が納得するまで食い下がってくる。
幼い頃から利発で、負けず嫌いで、恐いもの知らず。口が達者だから、なおさら始末に負えない。
ホリデーのたびにジェノヴァへ遊びに来ては、洒落にならない悪戯を仕掛けて、右往左往する大人たちを高みの見物して嬉々としていた。
中でも格好のカモにされていたのが、エルモだ。
十歳以上年下の妹に徹底的にやり込められて、顔を真っ赤にして家庭教師やボディーガードに援護を命ずる姿を、何度目撃したことか。
ふたりはその後、七年ほどフォレストヒルズで一緒に暮らしたはずだが、プライドの高い陰湿な兄と、好戦的で聡い妹──なかなか愉快な食卓だっただろう。
ルナが社交界を捨てたことは、アルフレックス家にとって損失だったが、AXにとっては火種を生まずに済んだという意味で、むしろ幸いだった。