桜ふたたび 前編
「こちらの方こそ、早合点してしもうて、ほんますんまへんどした」
「そうそう。ええ勉強さしてもろうて、よかったやん、女将さん」
──なんていい人たちだろう。
感謝の気持ちと同じくらい、小狡くその場を逃れようとしていた自分が、いじましい。
「ほんまや。澪のせいで遠回りしてしもたけど、一件落着と言うことで。──ほな、乾杯しましょか?」
何が一件落着したのかわからないけど、千世が斜め45度に首を傾げるのを見て、澪はああっと天を仰いだ。
彼女の〝戦闘開始〞の合図だ。こうなるともう手がつけられない。南国の鳥の求愛行動のような、見ている方が恥ずかしくなる情熱的なアプローチが始まる。
さっそく千世は、最上級の笑顔と半オクターブは高い声で、
「改めまして、ち・せ、で~す。よろしくね♡」
礼儀知らずなのか、名乗る気がないのか、男は冷たい顔で見向きもしない。
微妙な空気が流れた。
けれど、そんなことでめげる千世ではない。
周囲の懸念などものともせず、出陣式の乾杯が如く、澪の顔の前にグラスを突き出し、男に向けて掲げる。
いきなり袖の襲撃を受け、澪は面食らって仰け反った。あっと思ったときには手後れだった。着物に制約された動きは緩慢で、尻を支点に重力に引っ張られるように倒れてゆく。
とっさに目の前の袖をつかもうとしたとき、ふっと、体が浮いた。
──え?
男の腕が、さり気に背中を支えている。目が合って、澪は酸欠の金魚のように口をぱくつかせた。
当の加害者は、澪の上に被さるようにして、ますます男に顔を近づけて、
「お名前は?」
男は、茹で蛸のように真っ赤になった澪に視線を置いたまま、静かに言う。
「……J」
「ジェイ!」
親切に上体を戻されて、澪は恥ずかしさに顔を覆った。
お礼を言わなければとわかっていても、声が喉の奥に引っ込んで出てこない。
そんな澪の大混乱など、まったく意に介さず、〈名前を聞き出せればこちらのもの、うふふっ〉と、千世は勝利の笑みを浮かべるのだった。