桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀

夕べの鐘が響き渡り、冬の夕陽がスペイン階段を緋色の渓谷に変えている。
トリニタ・ディ・モンティ教会の鐘楼とオベリスクも、立ち上る真火のように朱に染まり、階段を埋め尽くすほど膨れあがった観衆たちを、幻想的な白昼夢へと引き込んでいた。

薄暗い路地を抜け、明るい広場へ出ると、再び細い路地に入り、そしてまた広場へ抜ける。
光と影と風が織りなす景色をくぐり抜け、やがて何の変哲もない小径の先に、その泉はあった。

トレヴィの泉。
宮殿の壁面に刻まれた凱旋門の前に、健康と豊穣の女神たちに囲まれた雄々しいポセイボーンが立っている。
その足元から柔らかく流れ出た水が、ミルキーグリーンの泉へと落ちていく。

幻想的な美しさに、人々は恍惚と時を過ごしていた。

「コインを投げてみる?」

軽い気持ちで言ってしまって、ジェイは直ちに後悔した。
占いや迷信の類は一切信じないが、運動神経が良いとは言えない澪のこと、失敗する可能性が高い。

ジェイの心配をよそに、澪は迷いもなく肩越しにコインを放り投げ、にっこりと微笑んだ。

「また、ローマに戻ってこられますか?」

風に水が揺れ、そのたび、噴水の音が耳に大きく小さくなる。

澪の耳許で囁くと、彼女はそっと目を閉じて、唇を差し出した。

衆目のなかの官能的なキスにも、羞恥心を感じない。
ここは永遠の都・ローマなのだ。

甘く、幸福な時間が、スローモーションで流れてゆく。
充たされた想いが、このまま永遠に続くのだと──ジェイは信じていた。
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