桜ふたたび 前編
「Piacere.Mi chiamo Mio.Piacere.Molto lieto.(初めまして、澪です。お会いできて光栄です)」

うまく唇が動かず子どものあいさつのようだったけれど、最後までつっかえずに言えた。はずなのに、クリスにさっきまでの微笑みはない。瞬きもせず美しいアクアマリンの瞳でジッと澪を見つめている。視線をそらしたいけれど、拒絶にとられてしまうだろうか。
でも、回りの人まで巻き込んだ息の詰まるような空気の停滞を、どうしたらいい?

そのとき、にわかに指笛と歓声が起こった。ステージに登場したベリーダンサーに、会場が湧いている。
瞬く間に女優の笑顔が復活した。

“初めまして、クリスです。よろしくね”

クリスは慈悲深い王女のように澪の肩をそっと引き寄せ、頬を寄せた。シルクのように滑らかな肌、澪の好きなアンバーローズの甘い香りがした。

それからのことはよく覚えていない。ハリウッドスターが目の前にいるなんて、夢かもしれないと手の甲を抓ってみたら、やはり痛くもかゆくもなかった。

──彼女が、クリスティーナ・ベッティなんだ。

スクリーンでは伝わらない匂やかなスターのオーラ。健康的でそれでいてセクシーで、優雅な笑みを絶やさない。どんな絵画も彫刻も、彼女の美しさの前には平伏すだろう。

澪はほうっと羨望の溜め息を吐いて、次に、鈍器で頭を殴られたように打ちのめされた。

──彼女が、クリスティーナ・ベッティ……。

澪は思わず、語らうジェイとクリスから顔を背けてしまった。

ふたり並んだ姿はとてもしっくりと似合っている。
厄介なのは、たとえ誰が否定しても、一度生じた疑念を無にすることができないほど〝女の勘〞とは強烈な意識を植え込んでしまうことだ。

澪の胸奥を、今まで経験したことのない感情が浸食し始めていた。
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