桜ふたたび 前編
そこはかとなく軋んだ空気の中、「そや」と思い立ったように奥に引っ込んだ女将が、すぐに黒いボトルを捧げ持って戻ってきた。

「ちょうど酒屋が試しに置いてかはったのがあって……。これでよろしおすやろか?」

差し出されたワインに、無表情の片眉が微かに上がったように見えた。

“Amarone della Valpolicella Classico”

ネイティブな巻き舌の発音。

「すっごぉい! ワイン、お詳しいんですねぇ。これは? ボルドー? ブルゴーニュ?」

予想どおりしかとする彼に、女将がすかさずフォローして、

「イタリアのワインなんどすて。〝ヴェローナの王様〞呼ばれているのやて言うてはりました。そやけど、グラスが……」

これでどうだとばかりに、慎一が棚の一番上から慎重におろしたのは、薄玻璃の脚付きタンブラー。先代から譲り受けたと聞く秘蔵の逸品だ。
いつも穏やかな細い目の奥に小波が立って見えて、澪は申し訳ないと目で詫びた。

ジェイは、慣れない手つきの女将からソムリエナイフを引き受け、巧みにキャップシールを外している。
流れるように抜栓する姿に、千世は月下のピアニストでも見つめるかのようにうっとりと呟いた。

「ヴェローナの王子様……」

〝ロマンチック〞という最後のカードまでそろえてしまって、千世の妄想に拍車をかけるだけなのに、お気の毒だけどどうすることもできないと、澪は注がれたガーネットの波紋に溜息を吐くのだった。
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