桜ふたたび 前編
──やはり目を離すのではなかった。

澪のことだから、また戻る方向を間違えて迷子になっているに違いない。太陽が出ていなければ北も南もわからず、選んだ方角がいつも逆という救いようのない方向音痴だ。

急ぎ足で外回廊への出口にさしかかり、ジェイは思わず足を止めた。
ベビーピンクのドレスの女が、丸柱に背を凭れて一人佇んでいる。

“クリス?”

クリスは蹌踉とした顔を上げ、ジェイを認めるとばつ悪そうに顔を歪めた。

“どうしたんだ?”

近寄ると、クリスはまるで小風に吹かれた柳のように、胸にしなだれかかってきた。
ジェイはクリスの肩を抱き留めて、巻き髪に隠れた顔を覗き込んだ。

“酔っているのか?”

“ええ、ひとりで新年を迎えるのですもの。酔わないとやってられないわ”

酒に強い彼女が、悪酔いするのは珍しい。プライドが高く見栄っ張りな女優が、人前で醜態をさらけるなど、あり得ない。

ちょうど傍にギャラリースペースがあり、今はイタリア画家の版画が展示されていた。
ジェイはクリスの背を押して、照明の明るさを避けて月影のソファーに座らせた。

“彼に約束をすっぽかされて、滅入っているの。そのうえ、あなたの可愛い恋人を見せつけられて、ジェラシーでひどい気分だわ”

クリスは、子どものように、きれいに整った爪を噛んだ。

“彼、クリスマスにビバリーヒルズへ帰ったきり、連絡もない。離婚の話し合いに行ったはずなのに、娘の顔を見て気が変わったらしいわ。彼に捨てられて、あなたに見放されて、そのうち世間からも忘れられる”

三十三歳、ハリウッドの過酷な年齢差別からすれば、もう主演を張れる歳ではない。
エージェントもあからさまに若い女優を優先し、ドル箱だった彼女をお荷物扱いだ。

だが商品としての〈クリスティーナ・ベッティ〉に方向転換は限りなく難しい。イメージチェンジに失敗すれば、彼女のみならずベッキーやパーソナル・アシスタントたちも路頭に迷わすことになる。

無理のある役作り、台頭してくる若手女優への嫉み、衰えてゆく肉体への恐怖。様々な負の感情と闘いながら、いずれ降ろされるスターの座に、彼女は必死にしがみついている。

“君が故郷を捨ててまで夢見たものは、そんなにイージーなものか?”

“若さと運だけでここまでやってきたのだもの。女優として積み重ねたものなんて何一つないのよ”

“君らしくもない”

“私らしさなんて、本人にさえわからないのに?”

クリスは自嘲した。

大衆が勝手に創り上げた〈クリスティーナ・ベッティ〉という偶像を常に演じ続けているうちに、本心と演技が混沌として、近頃ではもともとの人格がどうであったのかさえわからなくなっている。
そのうえ、カフェであくびをした、レストランのメニューに難癖をつけた、衣装が気に入らないとスタイリストを怒鳴った、そんな些細なことさえ金にしようとする輩に、四六時中つけ狙われているのだ。

凋落が見えてきたとたん、別の意味で賑やかになって、彼女を苛立たせ、精神を不安定にさせていた。
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