桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀

黒大理石の洗面台に両手をついて、澪は排水口へ吸い込まれてゆく水を、とりとめもなく眺めていた。
あんな身の置き所もない世界へ戻らなければならないと思うと、神経が焼き切れてしまいそう。

アレクたちのもとには、知人と思しき人たちがひっきりなしにやってきて、中には好奇心からか澪に話しかけてくる物好きもいる。アレクが上手に捌いてくれたけれど、それも申し訳ない。

なによりも、ただ怖気るばかりで不甲斐ない澪のために、誰に袖を引かれてもふたりが留まってくれていることが心苦しい。

このままここに隠れていたい。けれど、それでは彼らに心配をかけてしまう。

気分が優れないと、先に部屋へ案内してもらおうか。一応、ジェイのパートナーとしての役目は終わったはずだ。

ふと、視線を感じて、澪は顔を上げた。鏡越しに女が睨んでいた。

驚いて振り返ったはずみで、パーティーバッグが転げ落ちた。
あわててバッグを追う澪の前に、ラメのハイヒールの尖った爪先が立ちはだかった。

『Hey!』

ギクリと肩を震わせ、澪はゆっくりと顔を上げた。

妖光を放つ赤いドレスに、ブロンド。――ジェイを連れ去ったひとだ。

仁王立ちに両腕を組み、顎先を斜めにあげたその上から、メデューサのような目が見下ろしている。
その禍々しさに、澪は一瞬にして石になった。

『Are you Japanese?』

「い……Yes……」

女は、胸を反らしてフンと大きく鼻を鳴らした。

「ワターシ、張浩宇《チョウ ハオユー》ノ娘、張梅花《チョウ メイファ》。アナータ名前ナニ?」

澪はびびった。語頭に強勢をつけた早口で、片言ゆえに語気がきつい。

澪はようようメイファから体を引くように立ち上がり、

「……さ、佐倉……、です」

「サクラ? 知ラナーイデス。アナータ、パーパ、ナニシテル?」

「チ、父は、会社員です。employee?……」

メイファの目に、あからさまな侮蔑があった。
汚らわしいものでも見るように、上から下へ、下から上へ、澪の全身に視線を這わせる。頭を動かすたびに、シャンデリアのようなイヤリングが、ガラガラヘビのようにカシャカシャと音を立てた。
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