桜ふたたび 前編
不穏な空気に、澪は一歩二歩と後退した。
ついに洗面台に腰が当たって仰け反ったとき、ふと、記憶がよみがえった。
東京のレストランで、ジェイが会っていた初老の中国人。〈上海の投資家、張浩宇〉。あのときリンがそう言っていた。
「ワターシ、ジェイノgirlfriendデスネ」
澪は一瞬きょとんとして、少し遅れて大いに狼狽えた。ジェイとメイファの濃厚なキスが浮かんだ。
──このひとが、ジェイの恋人……?
ジェイはクリスを紹介してくれたけど、メイファは名前さえ教えてくれなかった。そのうえ、彼女と腕を組んで消えていった。
つまり、そういうことだったか──。
突如、烈しい動悸が澪を襲った。心臓から黒い血液がどくどくと、全身に流れ出していくようだった。
「ワターシ、ジェイニ会イニ来マシタ。デモ、アナータ、壊シマシタネ。Very disgusting!(非常に不愉快)」
澪は一刻も早くこの場から逃げだそうと、出口に目を向けた。
けれど、獲物を狙う蛇の目が、澪の遁走を通せんぼしている。
「クリス、シェリル、ジェイノgirlfriend、皆怒ッテイル。ココ、common people来ルトコロナイデス。アナータバチガイ。身ノ程、知リナサイデス」
一気に血の気が引く。
メイファは毒々しい薄ら笑いを浮かべた。
澪のようなタイプは、飛んで火に入る夏の虫。クリスに虚仮にされた腹いせに、充分愉しませてもらおうではないかと。
メイファは、洗面台の前で上半身を反らしたまま動けずにいる澪に、首を伸ばして擦り寄った。
「ワターシノパーパ、multi billionaire(超大金持ち)。ジェイ、ワターシトMarriageスル、lucky&happyネ。but、芸者ガールノスキャンダル、very bad。パーパ怒リマス。アナータ、ジェイノ邪魔、迷惑デスネ」
そして突然、澪のドレスの裾をつかんで引き上げ、濡れた手を押しつけた。
「手、拭クネ」
蒼白になった澪の胸元に、札束をぐいとねじ込む。
「チップネ。早ク消エナサイデス、prostitute(娼婦)」
全身を殴られたような衝撃に、息が詰まった。
最低の汚辱に言い返すこともできず、澪は喘ぐように逃げ出した。
けたたましい笑い声が、いつまでも、どこまでも、追いかけてくるようだった。