桜ふたたび 前編
〈前を見て〉
意表をつく男の声に、命じられるまま顔を向け、どきりとした。
無粋な大きな赤提灯の前で、スマホを手にしたジェイが、こちらを振り返り見ていた。
「ど、どうして番号を?」
そういえば──、
千世から渡されたメモを、彼はすぐさまテーブルの下で澪の手に押し付けた。
信用金庫窓口業務の千世は、仕事中は電話を受けられないからと、澪の電話番号まで書き添えていたのは打ち見ていたけれど、まさかあのほんの一瞬で、記憶したのだろうか。
〈This is my cell phone number,Keep it a secret.〉
引き返してきた千世に気づいたからか、英語でそう告げるやいなや電話が切られた。
澪はこわばった顔でいやいやをした。
──秘密って、それは困る。
今この瞬間にも、千世にバレたらと、ビクビクしているのだ。
澪はあわてて後を追った。
といって、着物では思うに任せない。裾を抑え草履に引っかかりそうになりながら、這々の体でふたりに追いついたときにはもう、明々とした三条通りの賑わいが目前だった。
眼下の鴨川の川原から、歓声がわき起こった。
月明かりの下、酔った学生たちがお祭り騒ぎしている。すでに上半身裸のお調子者もいるから、そのうちにまだ冷たい水へ駆け入るだろう。
「澪! こっち! こっち!」
じれったくも弾んだ声で千世が呼ぶ。
彼女の背後では、先刻の男性が、黒塗り車のドアに手を掛けて待機していた。
ジェイは、こちらに背中を見せている。
すれ違った人たちが、絹糸を引くように振り返ってゆくのは、彼が放つ圧倒的なオーラのせいだ。
彼の周りだけ金色の月光が静かに降り注いで、さながら厳かな輿に迎えられる殿上人のよう。
──こんな雲居の方が、あんなところに何しにいらしたんだろう?
仕事を抜け出してまで、食事がしたかったわけでもなさそうだったし、なにか、大切な用事があったんじゃないのかな?
ふっと彼が振り返った。目が合ったとたん、心臓がバクバク音を立てた。