桜ふたたび 前編
どこかで呼び出し音が鳴った。
自分のバックからだと気づいてあたふたと、千世だろうと確かめもせず受けた電話から、聞こえてきたのは──、
〈前を見て〉
意表をつく男の声に、命じられるまま顔を向け、人垣の間から届く視線に、どきりとした。
無粋な大きな赤提灯の前で、スマホを手にしたジェイが、こちらを振り返り見ていた。
「ど、どうして番号を?」
そういえば──、
さっき、千世から強引に渡されたメモを、彼はすぐさまテーブルの下で澪の手に押し付けた。
信用金庫窓口業務の千世は、仕事中は電話を受けられないからと、澪の電話番号まで書き添えていたのは打ち見ていたけれど、まさかあのほんの一瞬で、記憶したのだろうか。
〈This is my cell phone number,Keep it a secret.〉
引き返してきた千世に気づいたからか、英語でそう告げるやいなや電話が切られた。
澪はこわばった顔でいやいやをした。
──秘密って、それは困る。
今この瞬間にも、千世にバレたらと、ビクビクしているのだ。
澪はあわてて後を追った。
といって、着物では思うに任せない。
裾を抑え草履に引っかかりそうになりながら、這々の体でふたりに追いついたときにはもう、明々とした三条通りの賑わいが目前だった。