桜ふたたび 前編
眼下の鴨川の川原から、歓声がわき起こった。
月明かりの下、酔った学生たちがお祭り騒ぎしている。すでに上半身裸のお調子者もいるから、そのうちにまだ冷たい水へ駆け入るだろう。
「澪! こっち! こっち!」
じれったくも弾んだ声で千世が呼ぶ。
彼女の背後では、先刻の男性が、黒塗り車のドアに手を掛けて待機していた。
ジェイは、こちらに背中を見せている。
すれ違った人たちが、絹糸を引くように振り返ってゆくのは、彼が放つ圧倒的なオーラのせいだ。
彼の周りだけ金色の月光が静かに降り注いで、さながら厳かな輿に迎えられる殿上人のよう。
──こんな雲居の方が、あんなところに何しにいらしたんだろう?
仕事を抜け出してまで、食事がしたかったわけでもなさそうだったし、なにか、大切な用事があったんじゃないのかな?
ふっと彼が振り返った。目が合ったとたん、心臓がバクバク音を立てた。
幸い千世の視線は、運転手付の高級車に釘付けになっている。
恋のダイナモメーターは一気に最高値を振り切って、彼女は畏れ多くも、スターに群がる熱烈ファンの如く、何振り構わず殿上人の手を両手で握りしめた。
「今夜はとっても楽しかったです。ごちそうさまでした!」
一方的で固い握手を離すことなく、熱い眼差しでお言葉を待っている。
ジェイは無言で、人差し指を千世の眉間に近づけた。
きょとんとした顔が、指の動きにつられて横を向く。その隙に、彼は易々と縛から逃れていた。
──あっち向いてホイ?
澪は吹き出しそうになった。
たいした機転。
だけど、ノーブルな雰囲気のうえに冷たいポーカーフェイスだから、心理学に精通しているのか、ただの悪ふざけなのか、見当がつかない。
その美しいアンドロイドのような顔をいきなり向けられて、今度は澪がきょとんとした。
互いに見合うこと数秒。
彼の目の動きにつられて目線を下げた澪は、流れのままお辞儀して、しまったと気づいた。
欧米では、挨拶の基本は握手。男女の場合、女性から手を差し出すべきと聞いたことがある。
今のは拒絶に思われたかもしれない。
あわてて手を伸ばした先は空。相手の姿はすでに車中にあった。
風が一陣興った。
いつまでも子どものように両手を振る千世の隣で、澪はあっけに取られたような、大きな置き土産を背負わされたような気持ちで、車のテールランプが河原町通へ消えるのを見送っていた。