桜ふたたび 前編
Ⅻ 別れの曲

1、闇夜の砂漠

帰国した澪は、夢も結ばず泥のように眠り続けていた。
どのくらい眠ったのだろう。薄ら寒さに目を覚ますと、部屋はとうにすっぽりと夜に包まれていた。

澪は頭から布団にくるまって、もう一度瞼を閉じた。頭のなかを空にして、慈悲深い眠りの精が、再び銀色の帳を降ろしてくれることを願って。

薄い壁から重低音のリズムが漏れてくる。窓の外で虎落笛が啼いた。

息の苦しさに胸の痛みまで増すようで、たまらず布団から顔を出した澪は、暗い硝子窓をぼんやりと見つめ、やがて、終わった、と呟いた。

──ナニガ? 

と、もう一人の澪が訊ねた。

──幸せな刻。

澪は瞼の上に掌を翳し、長い溜め息を吐くと、思いを振り切るように寝返りを打った。

──ソレデイイノ?

──そうしなければならないの。

短い時間だったけど、ジェイと過ごせて幸せだった。毎日いろんなことを知って、たくさんのことを教えてもらった。
ジェノヴァの古い町並み、リーギの丘から眺める港の夜景、荘厳なサン・ピエトロ大聖堂、夢のように輝く青の洞窟。数え切れないほどキスして、抱き合って、愛し合って、彼の笑顔に満たされて、過ぎるほど幸せだった。
だから、もういい。美しい思い出のまま、終わらせよう。

そう心に決めていたのに、ジェイはまた、澪を振り回すことを言う。

──お願い、今は何も考えずに眠らせて。

無情にも、携帯電話が鳴った。

澪は気疎い体と心を奮い起こした。
ローマでジェイと別れてから24時間。たった24時間なのに、恋しい。感情が津波のように押し寄せて、涙が差し上がった。

〈電話を待っていたのに〉

拗ねた声に胸がきゅんとなる。

「ごめんなさい。寝てしまって……」

〈無事に帰ったのならいいんだ。疲れたんだろう? 起こして悪かった〉

──逢いたい。

思わず零れそうになる言葉を、澪はすんでのところで呑み込んだ。

〈来週からFrankhurt だけど、月末にはNew Yorkへ戻る。手続きのことは柏木に頼んだから、New Yorkで会おう〉

言わねばならない言葉が、どうしても発せない。口にした瞬間、終わってしまうから。

〈ぐずぐずしていると、また拉致するぞ〉

京都から澪を連れ出したことを引き合いにして、ジェイは悪戯っぽく笑った。

〈澪、愛してる。ゆっくりおやすみ〉
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