桜ふたたび 前編
スマホ画面が光を失い、再びあたりが闇に覆われても、澪はぼんやりと手の中の画面を見つめ続けていた。

──逢いたい。今すぐにでも彼の元へ飛んでゆきたい。もうこんなひとり取り残されたような夜はいや。

澪は、堤防の決壊を防ぐかのように両手で顔を覆った。

──無理だもの。

ジェイとは住む世界が違いすぎる。感情に流されるまま飛び込めば、彼の世界の均衡が崩れて、歪みやひずみを生じさせてしまう。
澪の覚束ない足では彼は歩みを止めてしまうし、彼の歩みに合わせたくても、歩幅も歩速も脚力も違いすぎて、歩数を増やしたところでいつか息切れしてしまうだろう。

澪は肩で一つ息をして、部屋の明かりを点けた。
振り返ると、惨めな顔をした女が硝子窓の向こうで見つめ返していた。

ふいに動悸が起こった。
その起因を考えまいと抗えば抗うほど、頭は冴えてゆく。
澪はずるずるとベッドから尻を滑らせて、床に膝を抱えて蹲った。

──ほんとうはそうじゃない。怖いんだ。彼女の存在を肌で感じてしまうことが。

メイファから、ジェイが複数の女性たちと性的関係にあると聞かされたとき、澪は、彼女たちを愛撫した手で自分にも触れていたのだと想像して、体が汚されたような不快感を覚えた。
けれどそれは、子どもじみた潔癖症に因る嫌悪感で、ジェイを憾んだり、ましてや彼女たちを憎んではいない。

だけど、クリスだけは違う。

彼女に会ったとき、澪は初めてその存在に畏れを抱いた。
ふたりのキスシーンを目撃したとき、喉が渇くほどの負の感情に心が萎びてゆくのがわかった。

誰からも愛される資格を授かった女神。彼女の廻りには常に光があり、彼女が歩いた跡には、きれいな花が咲く。
ジェイが彼女を愛するのは当然だ。

──わたしには何もない。

闇夜の砂漠に、ひとり彷徨う澪がいた。月もなく星もなく、水先案内人もいない。果てしなく続く丘陵に、足跡さえ風に消されて残らない。

ジェイは欲張りで残酷だ。女神の横に村娘を置いて、両方から愛を受けようとするなんて。

きっと、すぐに澪は邪魔になる。
そして、また、置き去りにされる。

──ジェイと同じオーデパルファムをつけていた……。

ふとそんなことを思い出し、澪は虚しく笑った。
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