桜ふたたび 前編
千世は、マホガニーのバーカウンターに頬杖をついて、グラスホッパーの翡翠色のグラスを夢見心地に見つめている。
事情を知らない者には、骨董の蓄音機から流れるアリアに、うっとり聞き惚れているように映るだろう。
対照的に澪は、シンガポールスリングを前に、強引に押しつけられた〝秘密〞の対処に、頭を悩ませていた。
──なんだか、すごく疲れた。
彼と出会ってから、時間がジェットコースターみたいに駆け抜けていって、目を回しているうちに、肝心のかんざしを返してもらうのをすっかり忘れていた。
──そうだ、かんざし……どうしよう……。
電話番号を知っただけでも千世に申し訳ないのに、かけるなど滅相も無い。
いっそ千世に伝えてしまおうか。でも、秘密だと口止めされたのに、勝手に教えたら彼も気分を害するだろう。
それに千世のことだから、相手の都合もお構いなしに、電話攻勢に走るのは目に見えている。
──残念だけど、かんざしは諦めるしかないか。着歴は……消してしまおう……。
できることなら、記憶ごと消し去りたい。
「ええ男やったなぁ、ヴェローナの王子様……」
澪の気も知らず、千世は桃色のため息を吐いた。
背後の棚に色とりどりのボトルが整列したカウンターの中で、鰹縞の小紋に黒の半幅帯を締めたマスター、もといママが、金髪のマッシュショートの横髪を色っぽく耳にかけ直しながら、〈またはじまった〉と少し呆れた表情を浮かべている。
離れ気味の円い目、ぽってりとした真っ赤な唇、横に広めの顔立ち。何顔かと問われたら、ナマズだろうか。
「なんやの? その何たら王子って?」
客は澪たちだけ。カウンターの隅で、白衣の方が似合いそうなメガネの理系美青年が、ピカピカのグラスを一点の曇りも許すまじと、真剣な目つきで磨きあげていた。
「ヴェローナの王子様! さっきまで里でな、めっちゃイケメンリッチなニューヨーカーと食事しててんよ。あんなきれいな男の人、生で見たん初めてやわぁ」
ママはとたんに瞳を輝かせ、食いつくように身を乗り出した。
事情を知らない者には、骨董の蓄音機から流れるアリアに、うっとり聞き惚れているように映るだろう。
対照的に澪は、シンガポールスリングを前に、強引に押しつけられた〝秘密〞の対処に、頭を悩ませていた。
──なんだか、すごく疲れた。
彼と出会ってから、時間がジェットコースターみたいに駆け抜けていって、目を回しているうちに、肝心のかんざしを返してもらうのをすっかり忘れていた。
──そうだ、かんざし……どうしよう……。
電話番号を知っただけでも千世に申し訳ないのに、かけるなど滅相も無い。
いっそ千世に伝えてしまおうか。でも、秘密だと口止めされたのに、勝手に教えたら彼も気分を害するだろう。
それに千世のことだから、相手の都合もお構いなしに、電話攻勢に走るのは目に見えている。
──残念だけど、かんざしは諦めるしかないか。着歴は……消してしまおう……。
できることなら、記憶ごと消し去りたい。
「ええ男やったなぁ、ヴェローナの王子様……」
澪の気も知らず、千世は桃色のため息を吐いた。
背後の棚に色とりどりのボトルが整列したカウンターの中で、鰹縞の小紋に黒の半幅帯を締めたマスター、もといママが、金髪のマッシュショートの横髪を色っぽく耳にかけ直しながら、〈またはじまった〉と少し呆れた表情を浮かべている。
離れ気味の円い目、ぽってりとした真っ赤な唇、横に広めの顔立ち。何顔かと問われたら、ナマズだろうか。
「なんやの? その何たら王子って?」
客は澪たちだけ。カウンターの隅で、白衣の方が似合いそうなメガネの理系美青年が、ピカピカのグラスを一点の曇りも許すまじと、真剣な目つきで磨きあげていた。
「ヴェローナの王子様! さっきまで里でな、めっちゃイケメンリッチなニューヨーカーと食事しててんよ。あんなきれいな男の人、生で見たん初めてやわぁ」
ママはとたんに瞳を輝かせ、食いつくように身を乗り出した。