桜ふたたび 前編
夢を見た。
夢のなかで、懐かしい胸に抱きしめられて、澪は赤ん坊のように声を上げて泣いていた。

空ろに天井を見つめていた澪は、夢の残り香に目を閉じた。
涙が溢れ落ち、熱を帯びた目尻にそっと滲んでいく。

いったい、いつまでこんな夢を見続けるのだろう。
目立たずひっそりと、平凡に過ごそうとしているのに、なぜ、こんなに苦しまなければならないの?

忘れたい。
イタリアなど行かなければよかった。
彼を好きにならなければよかった。
彼と出逢わなければよかった。
元々、出逢うはずのないふたりだ。記憶のなかから彼に関するすべてを消してしまいたい。

〈あれは疫病神だ。あいつの存在が人を苦しめる〉

父の言うとおりだ。
柚木の妻、そしてクリス。澪の存在が、彼女たちを苦しめ、自殺へと追いつめた。

──そうか、わたしが消えればいいのか。

消えたところで哀しむ人などない。役立たずの疫病神だから。

澪は涙を拭うと、のろのろと重い体を起こした。

立ち上がったとたん、烈しい耳鳴りに襲われて、澪は耳を押さえて再びベッドに腰を落とした。

「おはよう、目が覚めた?」

またいつもの幻聴だ。

「澪?」

澪はぼんやりと顔を上げた。
目の前にアースアイが覗き込んでいた。

──まだ夢の続きを見てるんだ。

そう思ったとき、唇の上に温かな唇が触れて、これが夢ではないことを告げた。
< 256 / 313 >

この作品をシェア

pagetop