桜ふたたび 前編

「なぜ?」

握る手に知らず力が強まった。
澪が反射的に逃れようとしたことが、さらにジェイの神経を逆立てた。

「理由は?」

乱れた感情を制御しようと、声を抑えて問う。
だが、澪の唇は固く閉ざされたまま。
彼の努力は呆気なく吹き飛んだ。

『Don't be stupid!(ふざけるな)』

ジェイは椅子を鳴らして憤然と立ち上がった。

怒りのやり場を探すように、廻れ右をすると大股に窓辺へ向かう。
烈しくなった雪を前に、苛々と組んだ腕の上で指を叩き続ける。

やがて、雪の白さにようやく頭の熱を冷ましたのか、ジェイはくるりと踵を返し、再び澪に向き直った。

「New Yorkへ行くのが厭なら、今回は諦める。外国暮らしに不安があるんだろう? まず、それを解決しよう」

澪は小さく頭を振った。

「それなら、何が理由なんだ?」

ますます混乱したジェイの脳裏に、稲妻のように昨夜の光景が過ぎった。

ジェイは冷笑を浮かべ、わかったとばかりに、

「彼か?」

「彼?」

「昨夜、一緒にいた男だ」

小首をかしげた澪は、ハッと気づいたように目を大きくすると、あわてて体を起こした。

「そんなこと! 柚木さんとは、もう過去のことです」

「過去?」

そのキーワードが、男心を逆なでするとは、澪は思ってもいなかったのだろう。
ジェイの胸を、刃風のような冷たさが突き抜けた。

「過去の男とふたりきりで、深夜に何をしていたんだ?」

「何もありません。気分が悪くなって、送ってもらっただけです」

「そんなありきたりの言い訳を、私に信じろと言うのか?」

「言い訳じゃありません、ほんとうに──」

「ベッドで抱き合っていて、何もなかったでは済まされないだろう? 君がそんな軽薄な女だったとは、失望したよ」

「ひどい……」

「ひどいのはどっちだ!」

静謐の病室に、怒号が虚しく響いた。

長い沈黙が訪れた。
時計の秒針の音すら聞こえそうな静寂。

先に耐えきれなくなったのは、ジェイだった。

《Porca miseria! Non e giusto. (ちきしょう、こんなことがあっていいのか)》

収拾のつかない感情を象徴するように、言語が混同している。

ジェイは大きく頭を振ると、

「納得できない。澪は、私のものだ。必ずNew Yorkへ連れて帰る」

問答無用といった、いつもの調子で低く言い放つ。

悲壮にうなだれる澪を、怒りと当惑の目で見つめると、ジェイは足音を立てて病室を出ていった。
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