桜ふたたび 前編
『Hurry-up.』
タイミング悪く現れたウェイトレスが、お冷やを手に固まった。
千世は助かったと言わんばかりの顔で、レモンティーを注文すると、お冷やを一気に呑み干した。
力強くコップを置き、大きく深呼吸。
そして、意を決したように、でもおずおずと、口をひらく。
「もう……赦してやってもらえませんか?」
思わぬ反撃に、ジェイは氷のような瞳を向けた。
「赦して欲しいのはこちらだ。勝手に病院から抜け出すなど──いったい、何を考えているのか」
「病院って? 澪、入院してたんですか?」
千世が勢いよく体を乗り出したので、カップが不作法な音を立てた。
「どこが悪いんですか?」
──心配と言うより、興味だな。
ジェイは胸のなかで嘲笑した。
同じ友人でも、菜都は心配りの聡い女だった。
しかし、住所がばれている友人宅に逃げ込むほど、澪は愚かではない。
千世は、今も目を輝かせて答えを待っている。
病名を告げれば、次は病状や治療法をしつこく尋ねてくるだろう。
彼女の元では、落ち着くどころか、治るものも治らない。
「とにかく、澪を病院へ連れ戻さなければならない」
「それは……あの……、たぶん、難しいと思います」
「なぜ?」
「……週刊誌のことがあって。澪、外に出るの、怖がってて……」
写真週刊誌の件は、昨夜、柏木から報告を受けた。
パパラッチたちの標的は、むろんクリスだ。
彼女の恋人の妻が不倫をリークしたようで、証拠写真を狙って貼り付いていたのだ。
その末に撮られたニューイヤーキスが、皮肉にも不倫疑惑の否定材料となり、クリスにとっては怪我の功名だった。
しかし、澪をクリスの変装だと勘違いした間抜けなカメラマンに、尾行されていたとは迂闊だった。
そのとき撮られたのが、澪との写真だ。
世間的には価値のないものだが、クリスの事故がつまらぬ憶測を呼んだ。
まさか日本で、一般人である澪を、かなり近い線まで特定した報道がなされるとは、考えもつかなかった。
いずれにせよ、ゴシップ記事にいちいち反応していたらきりがない。
「たかが週刊誌で」
ジェイが無造作に吐いたひと言に、千世は眦を吊り上げた。