桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀
〈澪〉
誰かに呼ばれたような気がして、澪はハッと顔を上げた。
さざ波が、規則正しいリズムで砂浜を撫でている。ときおり、鳶が高く甲高い声を上げて空をよぎる。
色あせた空を見ても、海を見ても、思い出すものはなにもなかった。
やり直すためにここへ戻ってきたのに、壊れてしまったものがなんだったのかさえ、思い出せない。
毎日、浜辺で波間を見つめ、ただわけもなく涙が零れた。
「澪ちゃ~ん!」
防波堤の上から、セーラー服の少女が手を振っていた。
スカートの裾と黒髪を風になびかせ、両手で口元を囲みメガフォンの代わりにして「お父さんが呼んど~」と声を張り上げる。
顔立ちは澪によく似ている。
けれど、陸上競技で鍛えられた小麦色の肢体は、若鹿のように健康的だ。そのうえ、中学・高校と生徒会長を務めていたという明朗活発な少女。
利発なおでこと、キラキラとした瞳が、今の澪には眩しすぎた。
澪は重たい腰を上げ、スカートの砂を払った。
「今日は早いね、なずなちゃん」
石段を上っただけで、もう息切れしている。
気力が萎えているせいか、体力も衰えていた。
「三年は自由登校だから」
「……ああ、そっか……。もう、二月なんだ……」
ここに来てからというもの、日にちの感覚がない。毎日が変化もなく過ぎていった。
澪が生まれ故郷を訪れたのは、二十年ぶりのことだった。
東京の暮らしや両親に馴染めず、祖母や伯父夫婦が恋しくて、いくども帰ろうとした。
けれど、子どもの足には遠すぎた。
母に電話を禁じられ、従妹が生まれてからは、手紙さえ迷惑だからと破られた。
〈本当の娘ができたんだから、お前なんか邪魔なだけでしょう〉
母の言葉に、澪は戻る家も、居場所も、唯一の味方も失った。
自転車を押したなずなのおしゃべりを聞きながら、海を背に菜の花のあぜ道をゆく。
やがてあたりは茶畑に変わり、その先に小さな集落が見えてくる。
長閑な田舎風景は、昔とあまり変わっていない。
けれど、あのころ友だちと手を繋いで歩いた道は、もっと長かった。
ザリガニとりをした小川は、もっと広かった。
空は高く、森は深く、畑は大きかった。
隣の家のカンタンの実に、今では手が届いてしまう。
ここだけがすべてで、ここにいれば安全だと信じていた世界は、今の澪を包むには小さすぎる。
きっと、変わってしまったのは、澪のほうなのだ。
〈澪〉
誰かに呼ばれたような気がして、澪はハッと顔を上げた。
さざ波が、規則正しいリズムで砂浜を撫でている。ときおり、鳶が高く甲高い声を上げて空をよぎる。
色あせた空を見ても、海を見ても、思い出すものはなにもなかった。
やり直すためにここへ戻ってきたのに、壊れてしまったものがなんだったのかさえ、思い出せない。
毎日、浜辺で波間を見つめ、ただわけもなく涙が零れた。
「澪ちゃ~ん!」
防波堤の上から、セーラー服の少女が手を振っていた。
スカートの裾と黒髪を風になびかせ、両手で口元を囲みメガフォンの代わりにして「お父さんが呼んど~」と声を張り上げる。
顔立ちは澪によく似ている。
けれど、陸上競技で鍛えられた小麦色の肢体は、若鹿のように健康的だ。そのうえ、中学・高校と生徒会長を務めていたという明朗活発な少女。
利発なおでこと、キラキラとした瞳が、今の澪には眩しすぎた。
澪は重たい腰を上げ、スカートの砂を払った。
「今日は早いね、なずなちゃん」
石段を上っただけで、もう息切れしている。
気力が萎えているせいか、体力も衰えていた。
「三年は自由登校だから」
「……ああ、そっか……。もう、二月なんだ……」
ここに来てからというもの、日にちの感覚がない。毎日が変化もなく過ぎていった。
澪が生まれ故郷を訪れたのは、二十年ぶりのことだった。
東京の暮らしや両親に馴染めず、祖母や伯父夫婦が恋しくて、いくども帰ろうとした。
けれど、子どもの足には遠すぎた。
母に電話を禁じられ、従妹が生まれてからは、手紙さえ迷惑だからと破られた。
〈本当の娘ができたんだから、お前なんか邪魔なだけでしょう〉
母の言葉に、澪は戻る家も、居場所も、唯一の味方も失った。
自転車を押したなずなのおしゃべりを聞きながら、海を背に菜の花のあぜ道をゆく。
やがてあたりは茶畑に変わり、その先に小さな集落が見えてくる。
長閑な田舎風景は、昔とあまり変わっていない。
けれど、あのころ友だちと手を繋いで歩いた道は、もっと長かった。
ザリガニとりをした小川は、もっと広かった。
空は高く、森は深く、畑は大きかった。
隣の家のカンタンの実に、今では手が届いてしまう。
ここだけがすべてで、ここにいれば安全だと信じていた世界は、今の澪を包むには小さすぎる。
きっと、変わってしまったのは、澪のほうなのだ。