桜ふたたび 前編
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「戻りました」

「入りやんせ」

アップライトピアノのせいで、いく分窮屈になった客間のソファに、まるで昭和の遺物のような頑固そうな男が座っている。

潮焼けした顔に刻まれた皺。白髪交じりの角刈り。南方系の濃い顔立ちは、まるでセーターを着た狛犬だ。
伯父の真壁誠一。五十半ばにして、腕は丸太のように逞しい。

誠一の向かいに見知らぬ顔がある。
伯父とは対照的に、小柄で、丸い目と大きな耳。どこか都会育ちのチワワのよう。歳は三十前後だろう。

男は手にしていた麦茶のコップをテーブルに戻し、軽く会釈した。

「ま、座りやんせ」

誠一はグローブのような手でソファをぽんと叩き、澪を自分の隣に座らせると、改めて男に向き直った。

「姪の佐倉澪でごわす。澪、こんし(このひと)は、わい(おまえ)も知っちょっじゃろ、岩戸ホテルの橫峯専務さ──」

「橫峯です。よろしく」

薩摩弁のなかでも枕崎弁は通訳が必要なほど難解で、最近では若者のみならず、年配者でも方言離れの傾向にある。
横峯は、関東圏に住んだ経験があるのだろうか。どこか頑張った感のある標準語だ。

「さっそくですが、澪さん、しばらくうちホテルの仕事を手伝っていただけませんか?」

唐突な申し出に、澪は戸惑いの表情を浮かべた。

「うちは小さなホテルでして、事務は僕の奥さんが手伝っているんですが、先日、早産しかけちゃいましてね。家で安静にしてろって、初孫だからお袋が神経質になっているんですよ。それでおじさんに相談したら、澪さんはコンピュータの仕事をしてたって聞いて」

「コンピュータと言っても、建築用のCADですけど……」

「でも、パソコンはできるんでしょう?」

「……はい……多少は」

「充分です」

「でも、あの──」

「三ヶ月──いや二ヶ月でいいんです。四月から新入社員がきますから。あまり深刻に考えず、気晴らしだと思って、どうですか?」

横峯は、ホテルの若旦那らしく愛想のいい笑顔を崩さずに、澪の返事を待っている。
本来なら派遣でも雇えば済む話だ。きっと誠一が頼み込んだのだと思うと、無碍にできない。
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