桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀

澪は、高台のホテルの屋上から、水平線に沈み行く夕陽を見つめていた。

夕陽の手前には、海から天を指差すようにそびえ立つ、峻険な奇岩――立神岩《タッガンイワ》。
豊かな黒潮の恵で栄えた漁業の町にとって、航海安全と大漁祈願の守護神だ。
黒い岩影が、オレンジ色に染まったさざ波の上に長い裾を引いて、海行く漁船を見守っている。

遙か東シナ海の水平線近くに、黒い島影がぽつりと浮んでいる。
目を東に転じれば、夕陽を正面に浴びて、開聞岳の壮麗な山影が霞んでいた。

当初は、伯父の顔を立てるため、仕方なしに勤め始めた澪だった。
それでも、世話好きでお喋り好きな仲居たちの輪に強引に加えられ、田舎の人情と豊かな自然に触れているうちに、次第に健康を取り戻しているように、周囲からは見えた。

❀ ❀ ❀

そうして、枕崎に梅の花が咲き、桃の蕾がふっくらと膨らみはじめたころ、澪は京都へ戻ってきた。

一月半ぶりの我が家は、少し湿ったかび臭い臭いがした。
出てきたときとなにも変わっていないのに、どことなく寒々しい。

懐かしさの次に、ほろ苦さがあった。
そして、やるかたない寂しさが、胸臆に広がった。

澪は、澱んだ空気を入れ換えようと、窓を開けた。
夜半の風がすっと冷たい指先を差し入れて、頬から首筋をなぞっていく。
雨水でもないよりましだと、窓の手摺りに出しておいた植物たちは、暗緑色に霜枯れて、みな死んでいた。

澪は、暗鬱とした気分で、部屋を振り返った。

少ないなりに家具にも食器にも思い入れはあるけれど、すべて手放すように、悠斗が手配してくれている。
少しでも身軽になれば、頭の中に墨汁を流し込んだような、いつまでも続くもの憂さから、逃れられるかもしれないから。

思えば、五年前も逃げてきたのだった。

あのとき手を貸してくれたのは、菜都だ。
ただひとり、柚木との関係を知り、ずいぶん反対もされた。
それでも、何くれとなく助力してくれて、あんな結果になったあとも、変わらぬ友情を結んでくれている。

菜都と最後に言葉を交わしたのは、イタリアへ発つ前日だった。
母親のガンが転移していて、手術も大変難しい状況だと言っていた。

命長らえるために乳房を切除したのに、半年も経たずに再発するなんて、神も仏も無慈悲だと、菜都は無念に言った。

澪は壁の時計を見やって、迷いながらスマホに手を伸ばした。
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