桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀

着信音に、洗い物の手を拭い、テレビのリモコンを手にした菜都は、スマホ画面を確認するやいなや、声を張り上げた。

「澪さん‼」

声に驚いたのか、テレビを消したことを察したのか、ソファでうたた寝していた一馬が、寝言を漏らしながら寝返りを打った。

〈こ、こんばんわ。……ごめんね、こんな遅い時間に〉

「今、どこ?」

〈アパートに。今さっき帰ってきたところ〉

「よかった……。心配してたんよ。携帯も繋がらへんし」

〈ごめんね。スマホ、アパートに置きっぱなしで……〉

「今までどこにいてたの?」

〈鹿児島の伯父さんの家。それで……、明日、向こうへ引っ越すことになったから〉

「え? 引っ越し?」

菜都は椅子を引きかけた手を止めた。

〈うん〉

「……そう、急やね……」

言いながら、力が抜けたようにすとんと腰を下ろすと、菜都は少しの間、思案した。

「それで、ジェイさんはどうしてはるの?」

電話の向こうにしばらく沈黙が続き、ようやく、苦しげな答えが返ってきた。

〈彼とは……、終わったの〉

菜都は澪を責めるように、溜め息をついた。

年の暮れから、母の病院通いと、母から頼まれた父の世話、それに育児と家事で、すっかり世情に疎くなっていた。
事件を知ったのは、三週間ほど前。タイミング悪く居合わせてしまった父から、澪が会社を辞めたと聞いて、耳を疑った。

それからまったく連絡がとれず、本当に案じていた。なぜ相談してくれなかったのかと、腹立たしかった。

一馬は〈なっちゃんの心配事をこれ以上増やしたくないんやろ〉と言うけれど、澪の水臭さに、情けなさが高じてますます怒りを募らせたりもした。

そのときから、こんなことになるのではと危惧していたのだ。
むろん、今回のスキャンダルだけが別れの理由ではなかったのかもしれない。
しかし澪のことだ。きちんと彼と向かい合うこともせず、ひとりよがりに諦めてしまったのが目に見えている。

「ジェイさんも納得したこと?」

長い長い沈黙があった。
澪は複雑に絡み合う感情に耐えかねたように、苦しげに言う。

〈元々、住む世界が違うもの。彼にはもっとふさわしい人がいるし、わたしなんか邪魔になるだけだから〉

菜都は電話越しにも聞こえるように長息した。

「それでも好きなんやろ? そやし、苦しいんやろ?」

不意打ちを食らって、澪は絶句している。
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