桜ふたたび 前編

「澪さんの悪いところや。相手の本心も確かめずに、先に自分から手放してしまう。澪さんは誰も傷つけとうないって言うけど、突然、梯子を外された相手の気持ち、考えたことある? きちんと正面向いて話さんと、お互いに引きずるだけや」

再び澪は押し黙った。
さっきよりも長い長い沈黙。
菜都は待つ。

そして、ようやく、まるで血を吐くように、澪は声を振るわせて言った。

〈わたし……、ほんとはね……、クリスが自殺したって知ったとき、一瞬でもホッとしてしまったの。彼がクリスの病室に駆けつけたって聞いて、どうしようもなく嫌な気分だった……〉

澪は大きく息継ぎをした。次の言葉を絞り出すために。

〈最低なのよ。そんなこと考えちゃいけないってわかっているのに、もう、自分で自分をコントロールできなくて……。そんな醜いところ、彼にはぜったい知られたくない〉

なるほどね、と菜都は頷いた。

澪がおおどかに見えるのは、彼女が感情を制してしまうからだ。実は繊細で感受性が強いのに、彼女自身がそう見られることを嫌っている。

それが、ジェイを愛したことで、今まで封じ込めていた情動が一気に噴き出してしまったのだろう。

思春期の恋を経験しないまま大人になった彼女は、自分本位な恋愛感情に耐性がない。ジェラシーという波動を心にもろに喰らって、ショック死しかけている。
それこそが人間らしさだということを、彼女は理解していない。

「あんなぁ、それが普通なんよ」

菜都は子どもを諭すように言った。

「誰でもみんな、心の底では同じ不安を抱えてる。どうしようもないとわかってても過去に嫉妬したり、アホやと思っても未来に妄想したり。彼の本心が視えなくて、でも誰よりも知りとうて、聞くのがこわくて、ジタバタ空回ったりする。
あたしかて、カズ君と同級生の女とのツーショット写真を、ムカついて捨てたこともあるよ。客観的にみたらカッコ悪いけど、そういう剥き出しの自分も嫌いやない」

菜都はふふっと笑う。

「澪さん、自分の感情から目を背けたらあかんよ。恋愛って、澪さんが考えているほど純粋なもんやない。独占欲も、ジェラシーも、猜疑心も、未練も、みんな必要な要素なんよ。
きれいな水には魚棲まずって言うやろ? 愛という魚も、殺菌された心のなかでは生きていけへん。お互いに心を裸にして、自分の醜さも受け入れて、相手の負の部分も赦して、そうして、ほんまに、魂と魂とが結ばれるのやないのかな」

〈……〉

「胸に手を当てて、しっかり自分自身と向き合うてみて。いつまでも逃げ続けていたら、苦しいだけやよ」
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