桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀


澪はパタリと床に腰を落とし、体の芯が折れたように、うなだれた。

諦めることには慣れている。何にも執着しなければ、何も起こらなかったことにできる。

それなのに、目も耳も口も塞いで記憶を葬り去ったはずなのに、今でも彼の夢を見る。
哀しくて、切なくて、恋しくて、泣きながら目が覚める。

逃げてばかりいるからいけないのか。
己の心と向き合わなければ、この苦しさから逃れることはできないのか──。

澪は胸に手を当てた。

──わたしは何から逃げていたのだろう。

──ああ、嫉妬してたんだ。

ジェイの愛を感じるたびに、不安になったのは、失うことが惜しくなったからだ。
こわかった。いつか彼の愛情を失うと思うと、こわくてたまらなかった。

だから、ジェイの隣に堂々と立てる彼女たちが羨ましかった。
彼を繋ぎ止められるものを、なにひとつ持たない自分が惨めだった。
そして、彼に寄り添う美しい彼女が、憎かった。

クリスへの恐れは、魂そのものが汚されたかのような忌まわしさとなり、澪の心を苛み続けていた。
ただその名前を思い出すだけで、心が乱れ、穏やかではいられなくなってしまう。

彼女には何の罪もない。それなのに、憎しみの刃は彼女を向いてしまう。
まるで、母が璃子を呪ったように──。

これが自分の本性なのだ。
心の奥底には、いつも黒い澱が潜んでいた。
「母のようにはなるまい」「性格は遺伝しない」と自分に言い聞かせ、醜い感情を隅へ押しやり、蓋をして見えないふりをしていただけ。

だから、自分の狭量さが露見して、嫌われてしまう前に、彼から逃げ出したのだ。

彼との関係を断てば、負の感情も消え、元の自分に戻れると思っていた。
それなのに、逃げれば逃げるほど泥沼に足を取られ、ますます動けなくなってゆく。
そんなみっともない姿を認めたくなくて、彼の記憶さえも消し去ろうとしていた。

──忘れられるはずがない。ジェイを、愛してる。
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