桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀

「ああ、ゴクラク、ゴクラク……」

空港ビルの玄関脇に設けられた足湯のベンチで、澪は体を捻って声の主を振り返った。
ルナは温泉に足をつけ、気持ちよさそうに目を細めている。膝までたくしあげた素足には、無数の古傷や生傷があった。

「ミオ、Nataleを覚えている?」

澪は躊躇いながら、ジェノヴァで過ごした思い出を紐解いた。
他の光景を引いて、まだ癒えきらない痛みが胸の奥で脈打つ。

「私、ジェイに言ったの。エゴイズムでミオの人生を振り回すのは止めなさいって」

名前を聞いただけで、胸がきゅっと締めつけられた。

「やり直すチャンスは、彼にはないの?」

やはり、ルナは知っていたのだ。
それを、いくら懇願されたからと、別れた恋人の妹に会うなど、無神経だった。

婚約者を亡くしたルナに同情して、断れなかったのも事実。
でも、そこに、彼に対する未練が介在していなかったかというと、嘘になる。

ルナに会ったそのときから、澪は彼女のなかにジェイの面影を写し見ていた。
相手の目を直視する眼差しや、照れたような笑顔。そのたび胸がきゅんとした。
逢いたい気持ちと、もう逢えないのだという失望感が、ずっと心のなかでせめぎ合っていた。

きっと、見透かされていたに違いない。

「……わたしではジェイと釣り合いません……」

そう呟く澪に、ルナは静かに首を横に振る。

「あんな化け物だらけの世界に、ミオが合わせる必要なんてない。ミオはそこにいるだけでいい。ジェイが、安心して戻れる場所であってほしいの」

それでも自信なく俯く澪に、

「永遠に失ってからでは遅い。傷ついても、傷つけても、それが生きている証なのだから」

寂しそうに呟くと、しばし黙った。
桜島を模したオブジェから注ぐ静かな湯の音が、ふたりの間にひとときの静けさをもたらす。

「──ジェイは今、入院しているわ」
< 284 / 313 >

この作品をシェア

pagetop