桜ふたたび 前編
リンでさえ、我が目を疑った。
元々ジェイはCOOとしての個室を持たない。代わりに少数精鋭の選ばれしメンバー・サンクチュアリのために、完璧なセキュリティに守られた専用ルームを有していた。
そのサンクチュアリオフィスが閉鎖され、新しいボスを迎えるまで、リンの去就は棚上げされていた。すべてのプロジェクトが凍結された今では、与えられる仕事もない。
彼女だけではない。ジェイに関わった者はことごとく、冷遇を受けていた。それは常に脚光を浴び続けた彼らにとって、屈辱的な毎日だった。
それ以上に屈辱なのは、CEOトミー・パーカーの下に就くことだ。
パワフルでスリルに満ちた日常を送っていた彼らにとって、マンネリ化したビジネスにはもはや何の歓びも見出せない。すでにヘッドハンティングの誘いに傾く者もいると、リンも聞き及んでいた。
『リン、みんなを招集してくれ』
スーツ姿ではないが、確かにジェイの声だ。
リンが、今まで見せたことのない歓びの表情でパソコンに向かったとき、ジェイの背後から上機嫌な声がした。
『これはジェイ、久しぶりに顔を出したかと思えば、ロンドンへの荷造りか?』
トミー・パーカー。アルフレックス一族の専有を監視するため株主側が放ったスパイ。
腹の出た彼は、いつもサスペンダー付きのズボンを穿いている。トウモロコシの髭のような前髪とゲジゲジ眉、丸い鼻に老眼鏡を引っかけた赤ら顔に笑顔を絶やさない。
マスコットにもなりそうな愛嬌のある風貌だが、吝嗇の気があることは、周知の事実だ。
ジェイはゆっくりと振り返ると、なぜか不敵な笑みを浮かべた。
『その前に片付けておかなければならないことがある』
『やり残したプロジェクトの件なら、心配無用だ。私の方で引き継ぐことになった。君は心おきなくロンドンへ行ってくれたまえ』
──鳶に油揚げと言うわけか。ハイエナのような男。
トミーの笑顔を憎々しげに睨み、リンは心の中で罵った。
メリットを与えてくれる権力者にはへこへこと媚びへつらい、部下の失敗には度量の広さをアピールし、その一方で成功を抜け目なくかすめ取って己の手柄と吹聴する。我田引水、自画自賛、世渡り上手。己の今の地位が、誰からも好かれているからだと本気で言っているのなら、妄想性障害かもしれない。
常にマウンティングしたがる彼にとって、ジェイは嫉妬で抹殺したいほどの存在だろう。
だが、やはり彼のロンドン行きは決定事項だったのだ。事実上、引退に等しい。
『そのうちの何件が、アランの取り分だ?』
リンは目を見開き、顔を跳ね上げた。
アースアイが、鋭くトミーの表情の変化を捕らえている。
トミーは何か言おうと口を開きかけたが、その青い瞳には明らかな狼狽があった。
ジェイはトミーの肩に手を置き耳元で囁いた。
『トミー、荷造りをしておけよ』
表情を強張らせ固まったトミーを、ジェイは二度と振り返ることはなかった。
颯爽とオフィスを後にする彼の背中に、誰かが『Woo~!』と雄叫びを上げた。
リンはデスクの下で『Yes!』と拳を握った。
電話一本で済むところを、彼がわざわざ姿を見せたのは、皆に告げるためだ。
魔術師が戻ってきたと。
元々ジェイはCOOとしての個室を持たない。代わりに少数精鋭の選ばれしメンバー・サンクチュアリのために、完璧なセキュリティに守られた専用ルームを有していた。
そのサンクチュアリオフィスが閉鎖され、新しいボスを迎えるまで、リンの去就は棚上げされていた。すべてのプロジェクトが凍結された今では、与えられる仕事もない。
彼女だけではない。ジェイに関わった者はことごとく、冷遇を受けていた。それは常に脚光を浴び続けた彼らにとって、屈辱的な毎日だった。
それ以上に屈辱なのは、CEOトミー・パーカーの下に就くことだ。
パワフルでスリルに満ちた日常を送っていた彼らにとって、マンネリ化したビジネスにはもはや何の歓びも見出せない。すでにヘッドハンティングの誘いに傾く者もいると、リンも聞き及んでいた。
『リン、みんなを招集してくれ』
スーツ姿ではないが、確かにジェイの声だ。
リンが、今まで見せたことのない歓びの表情でパソコンに向かったとき、ジェイの背後から上機嫌な声がした。
『これはジェイ、久しぶりに顔を出したかと思えば、ロンドンへの荷造りか?』
トミー・パーカー。アルフレックス一族の専有を監視するため株主側が放ったスパイ。
腹の出た彼は、いつもサスペンダー付きのズボンを穿いている。トウモロコシの髭のような前髪とゲジゲジ眉、丸い鼻に老眼鏡を引っかけた赤ら顔に笑顔を絶やさない。
マスコットにもなりそうな愛嬌のある風貌だが、吝嗇の気があることは、周知の事実だ。
ジェイはゆっくりと振り返ると、なぜか不敵な笑みを浮かべた。
『その前に片付けておかなければならないことがある』
『やり残したプロジェクトの件なら、心配無用だ。私の方で引き継ぐことになった。君は心おきなくロンドンへ行ってくれたまえ』
──鳶に油揚げと言うわけか。ハイエナのような男。
トミーの笑顔を憎々しげに睨み、リンは心の中で罵った。
メリットを与えてくれる権力者にはへこへこと媚びへつらい、部下の失敗には度量の広さをアピールし、その一方で成功を抜け目なくかすめ取って己の手柄と吹聴する。我田引水、自画自賛、世渡り上手。己の今の地位が、誰からも好かれているからだと本気で言っているのなら、妄想性障害かもしれない。
常にマウンティングしたがる彼にとって、ジェイは嫉妬で抹殺したいほどの存在だろう。
だが、やはり彼のロンドン行きは決定事項だったのだ。事実上、引退に等しい。
『そのうちの何件が、アランの取り分だ?』
リンは目を見開き、顔を跳ね上げた。
アースアイが、鋭くトミーの表情の変化を捕らえている。
トミーは何か言おうと口を開きかけたが、その青い瞳には明らかな狼狽があった。
ジェイはトミーの肩に手を置き耳元で囁いた。
『トミー、荷造りをしておけよ』
表情を強張らせ固まったトミーを、ジェイは二度と振り返ることはなかった。
颯爽とオフィスを後にする彼の背中に、誰かが『Woo~!』と雄叫びを上げた。
リンはデスクの下で『Yes!』と拳を握った。
電話一本で済むところを、彼がわざわざ姿を見せたのは、皆に告げるためだ。
魔術師が戻ってきたと。