桜ふたたび 前編
晩春の夜の気配が、優雅な紫の羽を広げて静かに街に降り始めた頃、トリコロールの大旗が目印の小さな店先で、澪と菜都(なつ)は行き合った。

「やっぱりね」

待ち合わせ時間より十分早い。予想通りと、菜都はニィと笑った。

シャープな輪郭に黒のショートボブ。口角が上がった薄い唇に、目尻が上向きのアーモンドアイ。
目力が強いせいか、少しとっつくにくい雰囲気がある。

菜都とは、澪が以前勤めていた会社で知り合った。彼女の方は妊娠を機に一年もせず辞めてしまったけれど、その後も季節ごとに近況報告するつきあいが続いていた。
目端が効いて何事にも動じない彼女は、一児の母ということを差し引いても、一つ年上の澪よりずっと足が地に着いている。

「こんばんわ、芽衣(めい)ちゃん」

「こん・ばん・わ、みーたん」

ママと揃いのアメカジファッションにリボンを結んだポニーテール。もう幼稚園児だというのだから、子どもの成長は本当に早い。しばらく見ないうちにいっそう賢くなって、輪郭もはっきりしてきた。

子リスのような瞳で見上げる少女に、愛おしさと同時に哀切が胸を吹き抜けて、澪は微笑みが少し陰ってしまったことを悟られまいと、店内に顔を向けた。

店は、木とテラコッタを基調とした明るく気さくな雰囲気で、窓のカフェカーテンと黄色いマーガレット柄のテーブルクロスが、南仏のビストロを思わせる。京野菜を使った料理が手頃なプリフィクスで愉しめると、女性に人気の店らしく、北白川の大通りから外れた住宅街にありながら、今夜もテーブルのほとんどが、賑やかな会話で埋まっていた。

「お見舞いに来てくれて、おおきに。お母さん、喜んでた。おかげさまで来週には退院できそうやわ」

菜都の母が乳ガンの手術を受けたのは、二週間前のこと。
姿勢が美しいのは、若い頃プロバレリーナだったからだと、菜都には珍しく自慢気に教えてくれたことがある。肉体の芸術家であった彼女にとって、乳房の摘出は辛い選択だったと澪は思う。
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