桜ふたたび 前編
「お見舞いに来てくれて、おおきに。お母さん、喜んでた」
低めで落ち着いた声のトーンは、あがり症の澪に安心感をくれる。
「おかげさまで、来週には退院できそうやわ」
キッズチェアに娘を抱き上げる唇に、嬉しさが滲んでいた。
菜都の母が乳ガンの手術を受けたのは、二週間ほど前のこと。
〈右のお乳ごと取ってしもうたから、何やバランスが悪うてね〉と、病室のベッドで彼女は哀しそうに微笑んだ。
今でも綺麗なスタイルなのは、若い頃プロバレリーナだったからだと、菜都には珍しく得意げに話してくれたことがある。
肉体の芸術家であった彼女にとって、乳房の摘出は辛い選択だったと澪は思う。
ちなみに、菜都の姿勢の良さは、バレエではなく、父の影響で通っていた空手道場での鍛錬の賜物らしい。
それも中学二年の夏にやめてしまったと、言っていた。
「澪さんは? なんか変わったことあった?」
「相変わらずなにも……」
ふと、脳裏に不思議な色の瞳が過ぎった。
あれから何度か千世から電話があり、そのたび〝ヴェローナの王子様〞について熱弁を聞かされた。
澪は、千世が言う〝ドラマのような奇跡〞を信じていない。通りすがりの旅人と、再び逢うことはないだろう。
ただ、あの日、自分を包み込んだ甘い香りに出会すと、なぜだか胸が締めつけられるように切なくなる。
その感情を何と呼ぶのか、澪は識らない。
「ん? なんかあった顔やね」
菜都は人の悪い笑みを浮かべる。
言葉足らずの澪の言いたいことを、いつも察してくれる気の置けない存在だけど、先回りしすぎて、逆に澪の方が〈はてな?〉と考えてしまうことがある。