桜ふたたび 前編

4、テムズ川

テムズ川畔の老舗ティーハウスの片隅で、ジェイは一人の男を待っていた。

バロック音楽が流れるビクトリア王朝風の店内では、マダムや老夫婦たちが、フィンガーサンドやケーキの優雅なアフタヌーンティーを愉しんでいる。スーツ姿の男が一人珈琲を飲んでいる姿は、周囲から完全に浮いていた。

窓の外にはタワーブリッヂ、橋の上を赤いダブルデッカーが走り、その下を水上バスが行き交っている。対岸に血生臭い歴史を刻んだロンドン塔が、降り始めた霧雨のなかに荘厳な佇まいを見せていた。

年代物の柱時計が、低い鐘の音を四度響かせたとき、重厚なドアが開いて、雨の匂いとともに一人の男が現れた。

男は肩の滴を払いながら、奥目の青灰色の瞳を素早く動かし店内を探り、たちまち痩けた頬を緩ませた。

レオナルド・デュガリー。
元パリ調査室チーフ、潜入調査を特技とするジェイの股肱だ。
フランス対外治安総局から、十年前にジェイがヘッドハンティングした。

シャタンの髪はかなり薄く、広くなった額を隠すように、申し訳程度の前髪を垂らしている。その割に体毛はツバメの巣のように多い。先の尖った耳が特徴だが、中肉中背の体にノーブランドのジャケットとポロシャツ、飄々と影が薄く、どこから見ても平凡な中年男にしか見えない。
ただ一つ、足音も立てずにジェイの向かいに座る、猫科のような身のこなしを除けば。

『お待たせしましたか?』

レオは、紙袋を脇に、ジャケットのポケットに突っ込んでいたレーシングプログラムをテーブルの隅に置き、ウエイターに片手を上げた。

『ロンドン土産にアスコットへ行ってみたのですが、いやぁ、今日はついていなかった。ああ、アールグレイとブラウニーを』

『サンタバーバラはどうだ?』

『お陰様でいい骨休めです。娘たちもヴァカンスには遊びに来ると言っています』

『それで、ハロッズで買い物を?』

レオは、大事そうに抱えてきたクマのぬいぐるみの耳が覗く紙袋に、照れ笑った。

彼はクローゼとの交渉決裂の責任を取らされ、解雇された。
現在はアメリカ西海岸のサンタバーバラで、長年酷使し続けた体を休めている。
エヴァが所有するヴィラだが、彼女は気前よく、と言うか無関心に、二つ返事で使用を許可した。この数ヶ月間にAXに起こった変事に興味がないのか、夫に知れれば譴責されるとわかってはいるだろう。

運ばれた陶器のティーポットから紅茶を注ぎ、香りを確かめるように、レオは花柄のティーカップに鼻先を近づけた。

『みなさんはお元気ですか?』

『相変わらずのようだ』

リンは、ジェイの後任としてCOOに着任したAXグループの元CFO(最高財務責任者)スーザン・バーノルズの秘書として残った。
ニコは未だ休職中だが、ジェイ帰還の報せを受け、理学療法士のカレに支えられて、驚異の回復力でリハビリに勤しんでいる。

『しかし退屈することはないでしょう?』

レオの口元がカップの向こうでニヤリと笑った。

一瞬、ふたりの視線が重なって、彼らは同時に窓へ顔を背けた。

ちょうどタワーブリッヂが跳開し、その下を貨物船が通り抜けて行くところだった。
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