桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀
穏やかな朝日が、砂子のように澪の産毛に零れている。
ジェイは羽毛布団の上に肘枕で添い寝して、しどけない寝顔を見守っていた。
よほど疲れていたのだろう。ソファで話し込んでいるうちに、いつの間にか澪は肩にしなだれかかったまま眠っていた。
彼女をベッドへ抱き移し、それから一晩中、こうして寝顔を眺めていたのだ。
愛おしさで胸が詰まった。
全身にキスをしたい熱い衝動を、必死に堪えた。
別れのとき澪は、〈愛している〉と言った。
その言葉を信じ切れず、彼女の愛を失ったと悲嘆に暮れた。
昔の男との仲を疑いもした。
だが澪は、ただひたすらに愛を貫くために、自分の元を去ったのだ。
たとえどんなに苦況にあっても、澪だけは裏切らない。
いや、窮境にある今だからこそ、神が彼女をはるばると遣わせ給うたのかもしれない。
──このまま澪を連れて、どこか静かなところで暮らそうか。
元はと言えば、生きる世界の違いが、ふたりの障害となっていたのだ。
澪をこちら側へ引き込もうと無理強いした結果が、彼女を追いつめ傷つけることになった。
ならば、自分がこの世界を捨てればいい。
そんな単純なことに、家族にも社会にも突き放されるまで、気がつかなかった。
──そうだ、日本で……結婚して、子どもをつくって──私と澪が得られなかった、穏やかで愛情のある家庭を築いてゆこう。
迷路の出口を見つけたように、ジェイの思考は脇目もふらず、一つの選択へ向かっていた。
そっと唇を寄せると、夢でも見ているのか、澪の口元が微笑んだ。
ふと昨夜の澪の言葉が、ジェイの胸を刺した。
〈時間をください。わたしが自分の感情から逃げ出さなくなるまで。ジェイが、元の自分を取り戻すまで〉
真っ直ぐに語りかけるような、静かな、そして確かな眼差し……。
アッと、ジェイは目を上げた。
──澪は知っていたんだ。事件のことも、その後の泥沼も。
メニエール病をかかえて長時間飛行するリスクを顧みず、朝まで寝入ってしまうほど体力も神経も削り、澪がたった24時間の滞在のためにニューヨークへ来た真の目的は、堕落してゆく男を奮い立たせるためだったのか。
臆病な澪が、手助けする者もなく、会えるともわからぬのに、単身海を渡ることに、どれほどの勇気と覚悟を要しただろう。
〈いつか必ず、わたしを迎えにきてください〉
ジェイは目を閉じて、澪の言葉を噛みしめた。
澪との生活に逃げ込むような不甲斐ない男を、彼女は望んではいない。
ジェイは眠る額にキスすると、もう一度、寝顔を焼き付けるように見つめた。
肩を上げて深呼吸をし、背筋を伸ばしてシャワールームへと向かう。
その後ろ姿に、昨日までの迷いはなかった。
穏やかな朝日が、砂子のように澪の産毛に零れている。
ジェイは羽毛布団の上に肘枕で添い寝して、しどけない寝顔を見守っていた。
よほど疲れていたのだろう。ソファで話し込んでいるうちに、いつの間にか澪は肩にしなだれかかったまま眠っていた。
彼女をベッドへ抱き移し、それから一晩中、こうして寝顔を眺めていたのだ。
愛おしさで胸が詰まった。
全身にキスをしたい熱い衝動を、必死に堪えた。
別れのとき澪は、〈愛している〉と言った。
その言葉を信じ切れず、彼女の愛を失ったと悲嘆に暮れた。
昔の男との仲を疑いもした。
だが澪は、ただひたすらに愛を貫くために、自分の元を去ったのだ。
たとえどんなに苦況にあっても、澪だけは裏切らない。
いや、窮境にある今だからこそ、神が彼女をはるばると遣わせ給うたのかもしれない。
──このまま澪を連れて、どこか静かなところで暮らそうか。
元はと言えば、生きる世界の違いが、ふたりの障害となっていたのだ。
澪をこちら側へ引き込もうと無理強いした結果が、彼女を追いつめ傷つけることになった。
ならば、自分がこの世界を捨てればいい。
そんな単純なことに、家族にも社会にも突き放されるまで、気がつかなかった。
──そうだ、日本で……結婚して、子どもをつくって──私と澪が得られなかった、穏やかで愛情のある家庭を築いてゆこう。
迷路の出口を見つけたように、ジェイの思考は脇目もふらず、一つの選択へ向かっていた。
そっと唇を寄せると、夢でも見ているのか、澪の口元が微笑んだ。
ふと昨夜の澪の言葉が、ジェイの胸を刺した。
〈時間をください。わたしが自分の感情から逃げ出さなくなるまで。ジェイが、元の自分を取り戻すまで〉
真っ直ぐに語りかけるような、静かな、そして確かな眼差し……。
アッと、ジェイは目を上げた。
──澪は知っていたんだ。事件のことも、その後の泥沼も。
メニエール病をかかえて長時間飛行するリスクを顧みず、朝まで寝入ってしまうほど体力も神経も削り、澪がたった24時間の滞在のためにニューヨークへ来た真の目的は、堕落してゆく男を奮い立たせるためだったのか。
臆病な澪が、手助けする者もなく、会えるともわからぬのに、単身海を渡ることに、どれほどの勇気と覚悟を要しただろう。
〈いつか必ず、わたしを迎えにきてください〉
ジェイは目を閉じて、澪の言葉を噛みしめた。
澪との生活に逃げ込むような不甲斐ない男を、彼女は望んではいない。
ジェイは眠る額にキスすると、もう一度、寝顔を焼き付けるように見つめた。
肩を上げて深呼吸をし、背筋を伸ばしてシャワールームへと向かう。
その後ろ姿に、昨日までの迷いはなかった。