桜ふたたび 前編

息が苦しくなって、澪は酸素を求めて大きく肩で息をした。
目の前を大勢の人が行き交っている。ざわざわと雑音が充満している。

人混みは苦手だ。
まわりの視線が気になって、話し声や表情や情報過多の緊張で、疲れてしまう。
まるで、大きな回遊魚の群に紛れた一匹の小魚の気分。

──逃げたい。

「すみません」

男の声に、澪はギョッと身構えた。

以前、河原町で千世と待ち合わせたとき、二人組の男に無理矢理クルマへ押し込まれそうになって、澪の人混み嫌いに拍車をかけていた。

「Mホテルって、どこですか?」

肩から大きなトラベルバックを提げている。
澪はほっとして、

「それなら八条口の方ですから反対側ですね。そこのエスカレータを上がると、八条口へ向かう南北通路がありますから──」

「どこの?」

澪が指さす先に、次々と人が上階に運ばれてゆくのが見えているはずなのに、男はなぜか首を捻る。

「わかんないなぁ。どこ? 案内してくれる?」 

ニヤニヤと手を掴まれて、澪は泡を喰った。ゾゾゾと鳥肌が腕から肩へと這い上がった。

「あ、でも、わたし、人を待っていて……、すみません、……は、放してください……」

言っている間にも引っ張られてゆく。混乱して、どうしていいやら完全にパニック状態。
逃れようと力任せに体を後ろに引いた瞬間、パッと手が離れた。
反動で仰反るように倒れかけた体は、幸いにも柔らかな壁に支えられて転倒を免れていた。

「イぇ~ス! イぇ~ス! ノープロブレム」

意味不明な逃げ台詞が、遠ざかって行く。

「日本ではああいうhit on(ナンパ)が流行ってるのか」

甘い香りと良く響くテノール。肩を支える、きれいな指先。

澪はハッと首を後に折った。
彫刻のような輪郭から、アースアイが見下ろしていた。
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