桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀
──京都は、目の前か。
サングラス越しに、シースルーエレベータから卯の花曇りの空を見上げて、ジェイは呟いた。
あの日──。
翌朝の面談が急遽キャンセルになった。
柏木は改めての日時設定を願い出たが、いかな事情であれ、与えるチャンスは一度。次の交渉の場など、永遠に存在しない。
スーツケースの奥に、忘れていたかんざしを見つけたのは、その空いたスケジュールを調整しているときだった。
手に取った瞬間、白鼈甲に仄かに微笑む清澄な瞳が、ふと浮かんだ。
透明感のある女だった。
滾々と湧く聖泉のように、その水は真冬でも温かく、真夏には冷たく、涸れることがないのだろう。
掌に掬ってみたくなって、衝動的に誘い出したのだ。
あれは、何という名の寺だったか。
松や楓の萌える木立の下に、ウマスギ苔が緑青の波を打つ景色が美しかった。若葉の間から注ぐ木漏れ日。草花の芳しい香り。庭のあちこちで囀り合う鳥たちの声。
眠くなるような風がそよいで、艶やかな濡烏の髪が、光の波をつくった。
ふとしたときに覗くきれいな鎖骨。理想的なバストライン。春色のスカートから伸びるすらりとした脚。
下心は十二分にあった。
それなのに、会話をするわけでもなく、ただ境内を巡った。
不思議なことに、1秒10G(1万ドル)と揶揄される男が、この無益な時間を延長したいとさえ思ったのだ。
ジェイが識る人間はみな、自己顕示欲の塊だ。自分がいかに他者より優秀で有能であるか、理念と理想を雄弁に語りたがる。
彼らの世界では、言葉こそが剣となり盾となる。
だが、彼女は語らない。
ただ静かに微笑み、相手の話に耳を傾けている。
ときおり発する声はやわらかく、耳に心地のよいトーン。
武器を持たぬ相手の前では、人はおのずと鎧の紐を緩めてしまうものなのか。
──京都は、目の前か。
サングラス越しに、シースルーエレベータから卯の花曇りの空を見上げて、ジェイは呟いた。
あの日──。
翌朝の面談が急遽キャンセルになった。
柏木は改めての日時設定を願い出たが、いかな事情であれ、与えるチャンスは一度。次の交渉の場など、永遠に存在しない。
スーツケースの奥に、忘れていたかんざしを見つけたのは、その空いたスケジュールを調整しているときだった。
手に取った瞬間、白鼈甲に仄かに微笑む清澄な瞳が、ふと浮かんだ。
透明感のある女だった。
滾々と湧く聖泉のように、その水は真冬でも温かく、真夏には冷たく、涸れることがないのだろう。
掌に掬ってみたくなって、衝動的に誘い出したのだ。
あれは、何という名の寺だったか。
松や楓の萌える木立の下に、ウマスギ苔が緑青の波を打つ景色が美しかった。若葉の間から注ぐ木漏れ日。草花の芳しい香り。庭のあちこちで囀り合う鳥たちの声。
眠くなるような風がそよいで、艶やかな濡烏の髪が、光の波をつくった。
ふとしたときに覗くきれいな鎖骨。理想的なバストライン。春色のスカートから伸びるすらりとした脚。
下心は十二分にあった。
それなのに、会話をするわけでもなく、ただ境内を巡った。
不思議なことに、1秒10G(1万ドル)と揶揄される男が、この無益な時間を延長したいとさえ思ったのだ。
ジェイが識る人間はみな、自己顕示欲の塊だ。自分がいかに他者より優秀で有能であるか、理念と理想を雄弁に語りたがる。
彼らの世界では、言葉こそが剣となり盾となる。
だが、彼女は語らない。
ただ静かに微笑み、相手の話に耳を傾けている。
ときおり発する声はやわらかく、耳に心地のよいトーン。
武器を持たぬ相手の前では、人はおのずと鎧の紐を緩めてしまうものなのか。