桜ふたたび 前編
『京都は目の前か』

サングラス越しにシースルーエレベータから卯の花曇りの空を見上げて、ジェイは呟いた。

あの日、翌朝に予定していた商談が急遽キャンセルになった。
かんざしの存在に気づいたのは、ニューヨークからオンライン報告を受けている最中だった。手に取ったとたん、仄かに微笑む清澄な瞳が浮かんだ。

透明感のある女だった。滾々と沸き上がる聖泉のように、真冬でも温かく真夏には冷たく、涸れることがないのだろう。手に掬ってみたくなって、衝動的に誘い出したのだ。

あれは何という名の寺だったか。松や楓の萌える木立の下に、ウマスギ苔が緑青の波を打つ景色が美しかった。若葉の間から注ぐ木漏れ日、草花の芳しい香り、庭のあちこちでさまざまな鳥たちが囀り合っていた。

眠くなるような風がそよいで、艶やかな濡烏の髪が光の波を作った。ふとしたときに覗くきれいな鎖骨、理想的なバストライン、春色のスカートから伸びるすらりとした脚。

下心は十二分にあった。それなのに、会話をするわけでもなくただ境内を巡った。
不思議なことに、一分10G(一万ドル)と揶揄される男が、この無益な時間を延長したいとさえ思ったのだ。

ジェイが識る人間はみな、自己顕示欲の塊だ。自分がいかに他者より優秀で有能であるか、理念と理想を雄弁に語りたがる。彼らの世界では言葉こそが剣となり盾となる。

だが、彼女は語らない。ただ微笑み、相手の言葉に耳を傾けている。ときおり発する声はやわらかく、澄んだ、耳に心地のよいトーン。
武器を持たぬ相手の前では、人はおのずと鎧の紐を緩めてしまうものなのか。
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